2003・4・1〜4・30
4月30日(水)
終了
3ヶ月続けた仕事も今日で終わりだ。最終日の今日はいつもより仕事がはかどった。達成感からだろうか。
さてこれからまた職を探さねばならない。結局文学新人賞は最終まで残らなかったし、これはこれで続けていくつもりだが、収入を得る道をひとまず取らない事には飢え死にしてしまう。私だけならそれでもいいのだが、家人と乳飲み子がいるから、そういうわけにはいかない。
4月も今日で終わりだ。
4月29日(火)
来客
家人の弟夫婦が我が家に遊びにきた。家人の父もきた。
家人の家系は酒をあまり飲まない。今日も私一人が酔っ払っていた。
弟夫婦は泊まった。会うのは3回目だが、相変わらずの私の飲みっぷりに呆れたかもしれないな。
しかし、それは男の生き様(いきよう。いきざまとは読まないで欲しい)なのだから仕方がない。
義理の妹は妊娠7ヶ月だ。元々大きな体がさらに大きく見えた(怒られるかな)。
4月28日(月)
誕生日
今日は我が妹の誕生日であり、また生きていればフセインの誕生日でもある。これら2つを並列しないで、と妹は憤慨しそうだが、私も今日その事実を知った。
4月か。我が愛娘も4月だな。そして今度一緒に紀伊半島に旅行に行く私の友達も4月だった。40になったはずだ。怖い。彼はまだ独身で恐らく一生結婚できないだろう。
40の独身男か。言葉の響きは哀れなものを感じさせるが、彼は決してあせってもいないし、自由を満喫しているのだから、幸せなのかもしれない。
言うまでもなく幸せとは感じるもので、自分にしかそれはわからない。傍目に不幸そうに思える人も実は幸せなのかもしれないし、その逆もありうる。
誕生日もそうだ。私くらいの年齢になると誕生日は迎えたくない。しかし無事に1年生きていたという観点から考えれば、一つの区切りとして、それをかみ締めるのもいいだろう。そういう意味でこれも感じ方一つだ。
フセインは今日誕生日を迎えたのだろうか?
4月27日(日)
読書と子守
今日は読書と子守に明け暮れた。それから買い物にも行かされた。まあ家人はまだ身動きとれないし、娘もいるから私がしないといけないのだが。
しかし最近休日くらいしかまともに本読んでないな。
4月26日(土)
一人でおでかけ
図書館から借りていた本を返す為に、家人を娘を残して藤崎に向かった。そこで新たに5冊借り、帰りに床屋に行った。
今日はコンタクトレンズではないので、当然めがねだった。切られている間は何も見えない。
もみ上げを短く切られ過ぎた。こら!変なんじゃい。やっぱ安い床屋はいかんなあ。大体3回に1回は不出来だ。まあ安いからしょうがないか。カット、髭剃り、シャンプーで1500円也。
4月25日(金)
悲惨
仕事に行く為の電車で新聞を読んでいた。実に哀切な記事を読んだ。それは火事によって幼子3人が死亡したという記事だった。
普通新聞では事実を有りのまま客観的にしか書かない。特に社会面ではそうだ。しかしこの記事には我が子を一瞬のうちの失った両親の台詞が小説のように書かれていた。記者の取材によるコメントではない。
父はこう慟哭したと言う。
「もう終わりだ……」
「もう終わりだ……」
母は半狂乱で倒れこみ、
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
と消え入りそうな声で何度もつぶやいたという。
私は記事を一面で読んだ時には、哀れな出来事だなとしか思わなかった。親は何してたんだとさえ思った。夜に幼子3人残して買い物に行っていた、という一文を読んだからだ。しかし最終の事件面で前述の記事を読んだ時、急に私に衝撃が走った。その悲傷は計り知れないと思った。
私には生まれたばかりの娘がいる。もし私がそういう目に遭ったら?
考えられない。そう思ったらその悲しみが私に乗り移ったような気がした。
「何故買い物に行ったのか」
「どうして子供達を置いていったのか」
「何故火事の元になるものを始末しなかったのか」
そうやってあらゆる事を後悔するだろう。
悔やんでも悔やみきれず、一生己を攻め続けるだろう。悔恨の涙を流し続けるだろう。もし自分の命と引き換えにその幼い命が生き返るなら、ためらわずにそうするだろう。
親とは自分より子供の方が大切なんだなと、その時初めて感じた。
残された両親より死んだ子供の方がより哀れだが、残された方も哀れだ。
亡くなった幼子はそれぞれ、一歳、二歳、三歳だった。
4月24日(木)
宿が決まった(キャンプ)
黄金週間の予定がほぼ決まった。宿泊場所も予約した。奇跡である。
行き先は紀伊半島だ。そこを観光し、キャンプ場に2泊する。
前にも書いたように私たちの旅に計画というものは存在しない。行き当たりばったりなのだ。しかし今回は小役人ことT(通称レンズ)が珍しく積極的な動きを見せ、予約をするという大偉業を達成した。いつもは口だけで行動しないと有名な奴なのだが、どういった心境の変化なのだろうか。
私は大阪まで行き彼らと合流する。東京組は車だから、待ち合わせの時間設定が難しいのだが、今回は待たせる立場で行こうと思う。昨年は待たされ過ぎたからな。
さてどうやって大阪まで行こうか。新幹線は高いし、高速バスかな。これから考えよう。
そして紀伊半島にて痛飲だ。家人と詩月を残していくのはやや心苦しいが。後の事は私の実家と妹夫婦に託そう。
4月23日(水)
仕事
今の仕事は今月で終わる。また新しい仕事を探さねばならない。
文学新人賞の方は2次審査まで行ったのだが、最終には残れなかった。まあそんなに甘いものではないから、そう悲観はしてないが。しかしこれからも私はあきらめない。
娘も生まれたことだし、文学に専念するわけにはいかない。食い扶持を確保しなければならない。そんな折今の契約会社(NTTマーケティングアクト)の営業マネージャーから、派遣ではなく契約社員にならないか、という話をもらった。業務内容は高速ブロードバンドに関することらしい。ううむ、願ってもない話だが、よくよく聞くと、大変そうなのだ。
まず研修が3ヶ月あって、その後も専門知識を得るために継続的に勉強しなければならないと言う。ある程度の知識ならあるという自負はある。しかしこの話を受けたら、それに時間を取られ、小説など書く時間を捻出する努力をしなくなるだろう。それに邁進してしまうだろう。会社員に等しいからな。
それに長期的な計画によって進められるプロジェクトみたいで、簡単には飛びつけない。気軽にはのれない。
真剣に考えるつもりだ。
4月22日(火)
黄金週間
私は毎年ゴールデンウイークに旧知の友2人と旅行に行く。昨年は山陰地方だった。今年はどうしようかと今日打ち合わせをした。
その前に家人と乳児を置いていくのかという問題があるが、まあ何とかなるだろう。
侃々諤々と意見を交換して、紀伊半島に行く事にほぼ決定した。
私達は毎年のことだが、行き先だけを決めて宿やら、行程やらを全く決めていかない。行き当たりばったりなのだ。それでいつも宿には苦労する。まあ大体キャンプをするのだが、キャンプ場も押さえてないので、ぎりぎりになって慌てふためくのだ。当日慌ててiモード検索したり四方八方手を尽くしてその日の寝床を探すといった有様である。
まあ今までは運良く何とか空いてたりして、事なきを得たが。ああそうそうそれに最悪の事態になったら、健康ランドみたいなところでもいいやという楽観的な考えが皆の頭にあるのだろう。実際3年前四国に行った時、初日はそれだった。
そんなに苦労するのがわかってるなら最初から予約していけばいいじゃないかと思われそうだが(実際3人ともそう思っている)、何故か誰も率先してそれをしようと思う奴はいない。
まあ結構そのスリルが楽しいのかもしれない。予定が決まりきった旅より、そのときそのときの流れに乗ってふらふらとするのもいいかもしれないのだ。実際思いもかけないハプニングに遭遇して、後々までの語り草になる事も多々あった。
そう一回だけきちんと宿を予約して計画を立てて旅行したことがある。一昨年だったか、佐渡に行った時だ。しかしふかふかの布団は我々を睡眠へといざない、ろくに酒も飲まずにすぐ寝てしまった。私達は旅に出て、その土地の匂いに親しみ、人の優しさに触れ、色々な体験をするために旅に出るのではない。
酒を飲みに行くのだ。それにはテントが一番である。ふかふかの布団は私たちに似合わない。
だが、今年はせめてキャンプ場くらい予約しようかな。もう予約でいっぱいかな。
4月21日(月)
詩月(しづき)
市役所に出生届を提出した。名前は詩月。元々家人のおなかの中にいる時に4月に生まれる予定だと言う事で「四月(しがつ)」と呼んでいたのだが、それを元に私が考えた。
当初は「姿月」とかいて「しづき」にしようかなと思っていたのだが、詩月のほうが字も映えるし、月の詩のほうが美しいだろうと言う事で「詩月」にした。
月は古来から「花鳥風月」や「雪月花」などど、自然を代表するものの一つとされている。さらにそのイメージは、はかなげで慎ましやかで、でしゃばる事なくひっそりと、しかも凛とした強さがあるような感じを受ける。
詩は言うまでもなく、風景、人事などの一切の事物について起こった感興や想像などを一種のリズムをもって叙述したものだ。
月の詩、いい響きだ。
自然を愛でる美しい心根を持ち、さらにその美しい自然そのもののように成長し、おしとやかで、しかも心には秘めた強さをもった、そんな娘になって欲しい、との願いを込めて「詩月」と命名した。
名前負けしそうだな。まあ健やかに育ってくれればそれでいい。
4月20日(日)
寝不足
夜中に何度も起きてしまう。今寝室はダブルベッドと娘のベビーベッドで所狭しとなっている。つまりベビーベッドからの物音で目が覚めてしまうのだ。私は元々眠りが浅く、小さな物音ですぐ目が覚めてしまう。家人は逆に滅多な事では目が覚めない。
2時間から3時間おきに娘がむずがって泣いたり、かすかな、声にもなってない音を発声する。私はそれで目が覚めてしまうのだ。そして娘の顔をベビーベッドまで見に行き、その様子でミルクが欲しいのか、おしめを替えて欲しいのか判断する。この基準は昨日一日で大体分かった。
家人は熟睡している。おしめなら私が替えてもいいが、ミルク(大体母乳中心なのだ)ならそうもいかない。家人を起こすしかない。
これがずっと続く。だから私はたった二日にも関わらず寝不足なのだ。
別に夜泣きする訳ではないのだが、私の神経が繊細だからだろうか。敏感なのだ。ゴルゴ13並なのだ。
私だけ別な部屋に寝ようかとも考えたが、何となく心配で、それも出来そうもない。
ところで明日は出生届けを出しに行く。名前はもう決まっている。正式な手続きが終わったら発表しようと思う。
4月19日(土)
退院
家人と娘が退院した。我が家に一人増える事になる。10ヶ月待ち続けた待望の赤ちゃんである。
家人の母親、つまり私の義理の母も壱岐から駆けつけてきた。今夜は我が家に泊まる。
我が娘もこの一週間で大分成長した。少しは表情が豊かになった。
病院からの環境の変化に最初は戸惑っていたようだが、今ではもう我が家のベビーベッドですやすやと寝ている。
これからはずっと一緒である。成長が楽しみだ。しかし私も家人もこれから睡眠不足になるだろうな。
4月18日(金)
生暖かい夜
明日は休みだ。気分的にのんびり出来る夜だ。
家人から聞いたのだが、今日我が娘は災難に遭遇したらしい。
家人が夕食を食堂でとっていると、娘がいる新生児室のほうから急に大きな泣き声が聞こえてきたらしい。余り泣かない子がどうしたんだろう、と思っていると、その後医者から頭の血を抜いたと聞かされて仰天したと言う。なんでもお産の時になかなか生まれないので吸引機を使って引っ張り出したため、うっ血というか内出血を起こしていたとのこと。確かに頭の形がいびつだった。
血は吸収されるから特に問題はないらしいが、念のため抜いたのだと言っていたらしい。確かにこれから成長していく段階で、もし骨とか細胞が圧迫されていびつのままだったらかわいそうだからなあ。
大人ですら頭に注射器を刺されて血を抜かれる事を想像したら、逃げだしたくなるのに小さな体でよく頑張ったよ。
4月17日(木)
初めての
仕事前に病院に行った。家人も娘も元気そうだった。
今日は初めてづくしだった。まず初めて抱いた。余りにも軽くて、その小さな命を今私にゆだねているかと思うと、いとおしくて急に親としての実感が湧いてくる。泣きもせずおとなしく私に抱かれている。
そのままミルクをあげた。吸い口を口の中に入れるとチュウチュウ吸い始めた。勢いよく飲んでいる。あっという間に無くなった。まだ欲しがっているみたいだが、後は家人の母乳をあげるらしい。
そして娘にキスをした。これは公言してたように私が初めての相手だ。そのうちどこの馬の骨かもわからない奴に奪われるくらいなら私が奪う。
ちいさな唇はまだ柔らかくもなく、弾力もなく、まだそれとして感じられなかったが、満足だ。
わずか30分の面会だったが、初めてだらけで充実した時間だった。
土曜日には家に帰ってくる。
4月16日(水)
荒れてきた
家人が入院して5日が経とうとしている。その間私は高級マンションに一人だ。土日は友人やら両親、妹夫婦が遊びにきたが、基本的には一人であった。
だんだん家が荒れてきた。見た目はそんなに散らかってはいないのだが、やはり違う。荒んでいる。
飯もいい加減になってきているし、生活スタイルが昔の独身時代のようになってきている。さびしいとかは全く感じないのだが、いかに家人に家事をまかせっきりだったかが分かろうものだ。
退院は土曜の予定だ。その日には家人の母もくるし、私の両親も来るかもしれない。
それに家人と我が娘をきれいな家で迎えてやりたいというのもある。仕方ない金曜の夜掃除しよう。
4月15日(火)
家を持ってるホームレス
博多駅から線路伝いに会社に向かうとやや大きな公園がある。桜の季節には目を楽しませてくれた。ところが今まで気づかなかったのだが、ここに奇妙な建物があるのをつい最近発見してしまった。しかも結構多いのだ。そう10個くらいあるだろうか。上には雨漏り防止だろうブルーシートが被せてある。
一体なんだろうと公園を突っ切ってよく見てみると、どうやら家のようだ。うむむ。
人が住んでる気配がする。公園をネグラにしているのだろうが、これはダンボールで作ったちゃちなものと違って立派な建築物である。昔よくあった長屋のようだ。それらが公園の外周に寄り添うように建っている。これには驚いた。なんて大らかなんだ。行政側は何とも言ってこないのか?
そのせいだろうか、近くにマンション等が立ち並んでいるのにこの公園で遊ぶ人やくつろいでいる人が全く見られない。
ホームレス達が我が物顔でこの公園を私物化しているのだ。だんだん腹が立ってきた。色んな事情があってやむなくこういう生活を強いられているのかもしれないが、それならもっと控えめにしたらどうだ。公園の価値を失っている。いつ行政からの立ち退き命令があっても即対応できるように身軽になったらどうなんだ。掘っ立て小屋かバラックみたいとはいえ立派に人が住めるぞ、これなら。
こんなに広い敷地を数人のホームレスが税金も払わずに、家賃も支払わずに所有している。日陰の身なんだからそれらしくしろ、と言いたい。行政は無償で土地を提供しているようなものだ。
仕方なくこんな生活をしているのかもしれない。一般の人が立ち入られないようなところはもはやスラムだ。公園ではない。行政よ、もっとしっかりしろ。対策を打て。何もホームレスを蔑ろにしろ、とは言ってない。もっと他のやり方で、住民とホームレス双方の立場に立って解決策を考えろ。税金の無駄だ。
4月14日(月)
疲れた
今日の仕事は疲れた。普段元気な時ですら疲れるのに、ここのところ出産騒ぎでろくに寝てないから余計に疲れた。
家人は私の100倍くらい大変だったのだろうが、あいつは元気なのだ。そういう面はすごい。私なら昨日のように大勢の人が来たら、それだけで疲れきってしまう。
その疲れた体に鞭打って親父のパソコンの設定などをしていたら余計に疲れた。朝の5時までかかってまだ終わらない。懲りすぎたかな。やっぱりウインドウズ95でしかも古いパソコンだから、どうあがいてもこれ以上快適にならないだろう。
しかし大分変わったのも事実だ。続きは明日やろう。
子供の夢でみ見ながら寝るか。ちなみに子供の名前はとっくに決めてあるのだ。その名前を思い浮かべながら一人で寝よう。
4月13日(日)
お見舞い客
今日は日曜日という事もあって大勢の見舞い客が来た。
まず私、私の両親、妹夫婦、家人の親戚やその子供たち6人、家人の友達4人。私が知っているだけでもこの人数が来たのだ。15人か。
家人も応対に疲れたのではないだろうか。我が娘はすやすや寝ていたようだが。
昨日と比べてやや人間らしくなってきたような気がする。
4月12日(土)
誕生
朝6時くらい家人から連絡があって、今から分娩室に向かうという。まだ完全に子宮は開いてないらしいが、とにかく準備が始まったらしい。
私はぼんやりとベッドに佇んでいた。まんじりともせずにだ。
9時くらいにその時は不意にやってきた。病院からの電話である。
「8時19分に3020グラムのお嬢さんが生まれました」
おおそうか無事に生まれたか。とうとう身二つになったか。私は目の前にいないが、呱呱の声を上げたか。
嬉しさというより安心したといった方が適切かもしれない。私は急いで起きて病院に向かおうと思った。だが、体の力が抜けてしまっている。
これで安心して寝れる、私はそう考えて眠る事にした。家人も疲れきっているだろう。一眠りして爽やかな気持ちで対面しよう。
昼頃起きた。シャワーを浴びて身を清めて、私は病院に向かった。
病室のある2階への階段をあせりながらも、努めてゆっくりと上っていった。家人の部屋は7号室である。個室だ。私が金にものを言わせて個室を得たわけではなく、全部そうなのだった。
「おう。よく頑張ったな」
家人は疲れた顔をしているものの晴れ晴れしい様子だ。そうだろう彼女にとって初めての大事業を成し遂げたのだから。
生まれるときの様子を聞いた。家人は一言一言ゆっくりと、だが急き立つように事の成り行きを私に話して聞かせた。誰かに言いたくて仕方が無いといった様子だ。私は相槌のみでそれを聞いた。いつもなら、まとめてから話せ、と言うところだが、今日は特別だ。話を聞いてやってねぎらう事しかできない。
ひと段落ついたようだ。私は新生児室に我が子を見に行った。
ガラス越しに見る我が子はまるで猿かエイリアンのようで、不細工に見えた。その体は小さく、生きているのが不思議なくらいだった。それでも彼女は10ヶ月の間頑張ってきたのだ。静かに眠っている。
これから大変だな、という思いが頭を掠めた。それと同時にこの子は私たちにとってかけがいのない宝物になるだろう、という思いも同時に浮かんだ。
この世に生まれてまだ数時間の我が子はこれから日に日に大きくなっていき表情も豊かになっていくのだろう。
私は特に感動をいうものをした訳ではなかったが、一時の感動より、これから長く続くであろう感動をゆっくりを味わいたい。
その夜はMと祝杯をあげた。3件もはしごしてしまった。
4月11日(金)
長期戦
仕事の前に病院に寄った。家人は別室で点滴を受けていた。陣痛促進剤みたいなものだろうか。看護婦さんによると、長期戦になるかも知れないとのこと。
左腕に刺された針が痛々しい。
夜再度来る事を約束して、仕事に向かった。
夜11時くらいに病室を訪れたが、未だその気配はないという。痛みだけが家人の体を襲っている。昨日の痛みの比ではないという。
猿が反省する時のポーズを取って痛みに耐えている。腰をさすってやった。
自宅に戻った私は心配で酒を煽らずにはいられなかった(いつもの事か)。なかなか寝付けずやがて外は白み始めた。とりあえず私も寝よう。
4月10日(木)
緊急入院
仕事を終えて帰路についていた私に家人からメールが来た。
「母(私の)とM(私の妹)が来ています。お腹が痛い。病院に行ってきます」
あせった私は急いで帰宅した。すると3人でのんびりと夕食をとっているではないか。
「あれ?大丈夫か」
どうやら痛む間隔が短くなってきたらしい。それで一応母と妹に連絡したとのこと。私は一安心してシャワーを浴びて、夕食をとった。だが念のため病院に行ったほうがいいだろうと言うことで私を残して女3人で病院に行った。妹が車で来ていたので送ってくれると言う。
私は結果次第で病院に行くつもりだった。ここから自転車だと10分くらいの近場に病院はあるのだ。
1時間くらい経っただろうか。まだすぐと言うわけではないが、そろそろだと思われるので入院することになったという連絡が家人からあった。
だんだん実感が湧いてきた。私も病院に行こうかと思ったが、明日に行く事にした。今日は家人は個室でお泊りだ。心細いだろう。やっぱり行けば良かったかな。
やっぱり慌てているのか、心乱れているのか文章が変だなあ。
明日は仕事だが、休もうかな。
4月9日(水)
イラク
ついにイラクの首都バグダッドが占領された。イラクの民はどう感じてるだろう。映像ではフセインの銅像が倒されていた。真実はどうか知らないが、イラクの民は開放感で喜びに満ち溢れていると言う感じだった。本当だろうか。今ままでの圧政に慣れている人々がそう簡単に己の心情をあけすけに出すだろうか。カメラがあってアメリカ兵がそこにいたからではなかろうか。
しかしこうなってしまった以上、後には戻れない。アメリカとイギリスは今後のイラクのことを公約通り復興させなければならない。特にアメリカは。
外部の強引な力によって自由を勝ち取ったかのように見えるイラク(まだはっきりとは分からないが)、果たしてそこに真の自由はあるのだろうか。自由とは自分の力で勝ち取るものではなかったか。
まだまだ目が離せない状況である。
4月8日(火)
予定日
今日は家人の出産予定日であった。私は仕事先で携帯メールによって結果を知った。まあまだ生まれる気配はなかったので、今日明日と言うことはないだろうとは思っていたのだが、まだ兆候すら見えないらしい。
とは言うもののその時が近づいている事は確かである。家人は自らの体で感じているだろうが、私にはまだ実感ない。家人の膨れた腹を見るたびに不思議な物体をみているようで、その中に新しい生命がいる事が不思議でならない。
果たしてその時が本当にくるのだろうか、という感覚である。
早く外の世界に出たがっているのだろうか、近頃よく腹の中で暴れているらしい。今の世は混乱していて、とても素晴らしい世の中だとは思えない。生きていく事は大変なことである事を既に知っている私は、どうやって迎えたらいいのだろうか。
子供はそんな事は考えない。この世に生まれた事の意味なんて考えもしない。私だって分からない。せめて親として少しでも子供が自ら、生まれてきて良かった、と思えるように環境を整え、愛情を持ち、立派に育てていきたい。
まあそんなに肩肘張ることもないか。親は無くとも子は育つというしな。健康であってくれれば言いかと思う。
私より家人の方がもっと大変だろうな。頑張れよ。
4月7日(月)
烈風
烈風が吹きすさぶ夜である。雨とともに激しく窓を叩いている。春の嵐だ。この風で多くの桜の花が散ってしまうのではないだろうか。まさに花に嵐である。
私は仕事に行く時地下鉄を利用する。ラッシュアワーではないので、通勤姿の会社員の姿は見えない。その代わり実に様々な人たちで溢れ返っている。
あたりを気にせずいちゃつくカップル(見ていて腹立たしい)、黙々と本を読む女の子(何故か男はあまり本を読まない、だからバカなんだろう)、昨日も書いたが、携帯電話を一心不乱に操作している恥知らず、居眠りをして隣の人の肩にもたれかかっている者(これが若くて可愛い女だったらいいが、おっさんだったら肩で押し返すよな)、それとあんまり見ないが、たまに出現する一人でぶつぶつと何かをつぶやいているおばさん(これが最も怖い)、実に多様である。
私はというと行きはその日の朝刊を隅から隅まで読む。帰りは小説を読むのだが、大抵途中で眠くなってしまい、そのまま寝る(しかし絶対隣の人には寄りかからない。不動なのだ)
片道30分なので、今読んでいる本はあまり進んでいない。これは通勤用の本としているから家では読まないのだ。
風も止んできた。酒を飲みながら本でも読むか。
4月6日(日)
写メール
新しい携帯端末にカメラが付いている事は既に述べたが、惜しい事に画像が荒い。10万画素で、メールに添付するくらいの大きさなら十分だと思っていたのだが、CCDじゃ無い為か、クリアではない。取り込まれた画像は、かろうじて人の顔が判別できるといったお粗末さである。
まあカメラなんて今までは無かったし、これからもあまり使うことはないだろうが、何となく釈然としない。まあ0円であるから文句も言えないのだが、同じ0円のもう一つの機種はCCDだっただけに、やや悔やまれる。写メールとしてだけではなく、ふと目に留まったものを記録する手段としての効用を期待していただけに、残念だ。
無料のくせに何贅沢言ってるんだと言われそうだが、まあ考えてみれば、当初は電話代を少しでも安くあげるための変更であったのだから、そこまで求めると、これは単なる欲望の延長かもしれない。人間とはこうやって果てしの無い欲望を持ち、それを追求する生き物なのだなあと反省した。(大げさか)
しかしこういう機械の発達の早さには恐れ入る。つい10年前なんて、携帯電話を持つ事なんて考えもしなかった。持っているのは金持ちか、やくざくらいなものだった。通話料も高く、しかも皆が持っているわけではないので、利便性もあまり感じられなかった。今では小学生ですら持っている。今昔の感に堪えない。
電車の中での光景にはうんざりする。若者はもちろん、中年に至るまで携帯片手にメールを打ち込んでいる。異様である。私も仕事から帰るとき、家人に今から帰るというメールを送っているが、それはその1回だけであり、延々と携帯とにらめっこする事に羞恥を覚える。まあ暇つぶしだろうが、皆が皆その方法を取らなくともいいのではないか。そのくせ個性的でいたいとか、人と同じ事はしたくないとかほざいているのだから、まさに本末転倒である。
まあ百歩譲って、その行為を好意的、すなわち他人とのコミュニケーションを図る為に時間を割いているのだなと解釈したとしよう(そんな方法でしか出来ないのかとも思うが)。だがせめて着信音や操作音くらい消せと言いたい。ガキどもなら「うるさいんじゃい!」と心の中で舌打ちすればいいが、中年の疲れ切ったサラリーマンがそれこそこちらが赤面するような、変な着信メロディーを鳴らす事には殺意すら覚える。
かくいう私もそこまで愚かな事はしないが、携帯電話のメールなどはよく利用している。これじゃ五十歩百歩、大同小異、甲乙なしかもしれないな。そうだパソコンでメッセンジャーとかもやっている。
ううむ。いやだがしかし、私はマナーというものをわきまえているつもりだ(ホントかな)。
4月5日(土)
外出
昨夜の夜更かしのせいもあって、昼過ぎの起床となった。休日でもあることだし、のんびりと読書でもしようかと考えていたのだが、急に思い立って出かける事にした。出かける事の意味はもちろんある。私は意味も無く出かけるのを嫌う。まあ根っからの物臭なんだろう。今日の場合それは携帯電話の加入会社を変更するという事だった。
今まではドコモであった。家人もそうだ。しかし夫婦であるのも関わらず家族割引が適用されないのだ。何故かと言うと、契約した地域が異なるからだという。私は東京、つまりドコモ中央であり、家人は福岡、つまりドコモ九州なのだ。
同じドコモなのに、何故だと言う疑問は当然湧く。この割引の恩恵を被ると何と月に2人で基本料金から4割もお安くなるのだ。これは大きい。
これらのことと、さまざまな情報から私はJフォンに変えるべきであるという結論に達したのだ。もちろん私が今のドコモとの契約を解除して、新たにドコモ九州にて新規申し込みをしてもいいのだが、そうなると番号も変わるし、そうした後に家族割引を申し込んでも、Jフォンの安さには及ばないのだ。
家の近所にドコモショップがある。家人を連れてそこへと向かった。事情を話して、相談してみた。すると今年の7月から、ドコモの契約会社が違っても、家族割引が適用されるようになるらしい。迷った。結局じゃあそれまで待つかと言うことになった。
このまま家路に着くのも勿体なく感じ、姪浜まで足を延ばす事にした。そこにある本屋に私が注文した本が届いているはずなので、取りに行く事にした。本を受け取り、ぶらぶらしていると、Jフォンショップが目に入った。狭い店舗であったが、客は結構入っている。鹿児島か宮崎の出身だろうと思われる若い女店員に話を聞いてみた。やはりどう考えても安い。月単位にすると2人で4千円くらい安くなる。
よし変更しよう。家人も身重だ、いつ生まれるか分からないし、今日契約するのが得策だろう。
機種には拘らない。0円のものをそれぞれ色違いで選んだ。一応写メールも付いている。手続きに1時間くらい掛かるというので、私たちは近くのラーメン屋で夕食をとる事にした。
真っ赤なJフォンショップの袋を2つ下げて帰途についた。早速設定やら、変更の連絡やらで今までよりコンパクトになった携帯電話に掛かりきりとなった。
新しいおもちゃを与えられた子供のような感覚だ。何故か少しはしゃいでいた。
7年間お世話になったドコモとはお別れである。
4月4日(金)
中止
今日久し振りに友達と中洲の夜でも楽しもうかと、約束していたのだが、お互いの仕事終了時刻のズレから中止になった。まあ飲もうと思えば飲めたのだが(昔の俺なら絶対飲んでた)、何となくだるくなって帰宅した。途中の姪浜というところで飲もうかという案も出たのだが、奴も妻帯者だ。無理強いは出来ん。
帰ってきたのは10時前だった。
しょうがない、いつものように家で晩酌しよう。
気が付いたら、取って置きの濁り酒を飲んでいた。朝の4時であった。珍しくテレビを見ながら飲んだ。映画「青春の門」と「巨人の星」を続けて観た。明日から3連休なり。
4月3日(木)
花
再三再四述べてきたが、相変わらず仕事場の雰囲気には慣れない。もくもくとルーティンワークをする事に私は耐えられない。皆無言である。まあ仕事なのだから当たり前だろうが、それにしてもキーボードを叩く音しか聞こえない広い事務所は、機械の歯車が正確に回っているだけのようで、人間らしさを感じられない。
1時間に1度5分の休憩がある。それぞれその時間を使って思い思いに休むわけだが、私はリフレッシュルームと言うところに行ってタバコを吸う。
殺風景な小部屋で、そこでも皆あまり会話をすることなく、ただひたすらタバコをふかすだけだが(女ばっかで男は俺くらい)、そこであるものを発見した。
テーブルの真ん中あたりに透明な水が入ったコップがあった。その水面に桜の花弁が浮かべてあったのだ。ほう風流なことをする奴がいたものだ。一服の清涼剤となった。普段は花など見ても、ああ綺麗だなと感じるくらいのこの私だが、この殺風景の部屋の中で見ると、それが鮮やかに際立つ。
ゆらゆらと水面をそよぐ花弁は、あと2時間仕事を頑張らせる活力になった。なんてね。
4月2日(水)
夜は怖いだろうな
仕事場に行く途中に10階建てくらいの古びたマンションがある。最初見た時の異様さは忘れる事が出来ない。
何気なく歩いて会社に向かっていると、ある建物の1階部分、元は飲食店だったと思われる部分が廃墟と化しているのが目に入った。
「うん?つぶれたレストランかな」
しかしよく見てみると、入り口どころかあらゆるところに大きな穴が開いていて、中の様子が伺える。薄暗い空間の奥にカウンターの名残らしきものが見え、ごみや廃棄物、そして得体のしれない何かで埋め尽くしている。
「何だこれは」
建物の上を見上げると、くすんだ外壁に覆われた生気のない建造物がそびえたっている。もちろん人気は感じられない。
廃墟に成り下がったマンションだ。昔は人がここを住居とし、生活の場にしてたのであろう。その名残はそこかしこに見受けられるものの、今ではただ単に死人のような寂寥感を漂わせているだけだ。
昔テレビで見たことのある廃墟マンションだろうか。確か何かのニュースか特番で出ていたような気がする。しかしここは博多駅近くの一等地だ。一体何があったというのだ。
色々な想像はできる。多分人の生き死にに関わるような何かがあったように思える。バブルの残骸なのか。
毎日ここを通り過ぎるたびについつい全容を目で追ってしまう。
人通りがあるうちはいいが、深夜にこれを目にすると、中から何かが出てきそうで怖いだろうな。
廃墟と貸した一軒家などはたまに目にするが、これほどの規模のものは始めて見た。
人は死ぬと灰となり、跡形も無くなるが、誰かの記憶には残る。それを記憶している人が死んで、初めて無と化すが、人工的に作られたこの建物は、姿を晒したまま灰燼と帰している。それを記憶している人もいるだろうが、それは決していい思い出なんかじゃないような気がする。
行政なり、どこかの業者なりが葬ってくれるのをこの建物は待っているのだろうが、どこかの誰かが何かしらの権利を持っていて、それを許さないのだろう。
ここに至る経緯や事情は知らないが、何とか出来ないものか。
昔見たニュースでそこらの事を説明してたような気がするが、失念した。誰か知っている人がいたら教えて欲しい。
歴史に刻み込みたい建造物ならともかく、この建物は異様なだけで、一から再生した方がよい。
4月1日(火)
四月馬鹿
今日はエイプリルフールだ。ああ何かくだらない嘘を誰かについて、楽しもうと思っていたのに、すっかり忘れていた。余裕をなくしているのだろうか、それとも遊び心を忘れてしまったのか、40前の男の姿としてはこれで正しいのだろうが、何かさびしい。そういえば誰も私に嘘をつかなかった。
それとともに年度始めでもある。皆さんは何か新しい目標なり方針を打ち立てただろうか?
私は立てた。今までとほとんど変わりはしないのだが、中途半端に終わっているので、改めて心に刻み込んだ。
仕事帰り駅まで歩く途中、飲み屋のネオンが散らばっているのを見て、ふとサラリーマン時代を思い出した。よく仕事帰りに立ち寄ったっけ。一旦飲みだすと勢いがついて、よくはしご酒をしたものだ。
今ではそういうことは全くない。さびしいような気もするが、家庭を持つとこうなってしまうのか。それとも単純に飲むことに疲れてしまったのか。どちらもあてはまるだろう。家に帰ってのんびりと晩酌する方を選択してしまっている。つまらない男になったものだ。まあ晩酌といっても、ワイン1本以上は軽く飲んでしまうがね。