2003・5・1〜5・31


5月31日

 契約書

 色々下調べをしてから不動産屋に電話した。この素人が、と甘く見られたときの予防である。その知識を持って、私は担当者を呼び出した。

 「契約書で納得できない箇所が多々あるのですが」と私。
 「どこでしょうか?」と担当者。

 私はその箇所を指摘した。

 「それが私どもの契約書ですから」

 これで私はカチンときた。

 「あんな貸し手重視の条文があるか!あんたのところはそんなインチキ商売してるのか」

 これは下調べした知識で私に分がある事はわかっている。これは国土交通省のガイドラインでもそう書いてある。もちろん契約書に書いてあれば、それに従わざるを得ない。しかし5月28日の日記でも書いたとおり、こんなおかしな条文をいけしゃあしゃあと書き込んである不動産屋を私は許さない。どう考えても良心的とは思えない不動産屋である。

 「大家は家人の知り合いなんだ。今まで直接大家と交渉してきたんだ。大体あんたこの条文を大家に説明したのか?」

 「大家さんに依頼されただけですから」

 「だから大家はこのことを知ってるのかと聞いてるんだよ」

 口を濁している。どうせ説明してないのだろう。

 「あのな後からきてしゃしゃり出ないでくれ。あんたを通してこの物件を見つけたわけじゃない。それで仲介料もらおうってんだから、図々しいにもほどがあるぞ」

 「それならこちらを通さなくてもいいです」

 「ああそうするよ」

 すると、黙って切りやがった。ふざけてるなあ。悪徳だし、人間としての最低のマナーも知らん奴だ。

 しばらくしてその不動産屋から電話があった。今度は打って変わって下手である。

 「私どもも、この契約をつぶそうとしてるわけではございません。どうしたらよいでしょうか?」

 ほうほうそうくるか。それなら許してやってもよい。私は自分の要望を全て述べた。後は大家が了解すれば問題はない。しかし簡単にいかないんだな、これが。私は大家と電話で話をした。

大家も大家で家人の昔の同僚らしいが、この人わかってないなという感想を持ってしまった。つまり借り手は退去時に修繕やらクロスの張替えやらを全て負担するものだと思っているようなのだ。

 もちろん私の家賃の値切りにも応じたし、不動産屋への手数料も大家が負担すると言ってくれたし、敷金も分割でいいと言うし、また内装もきちんとしてくれた。まあそこまでは文句はない。しかし退去時に関しては譲れない。

 私はそれは違うと説明してやった。思い込んでいる人を説得するのは難しい。何とか大家を説得はした。そこまでは払いませんよと。

 大家は退去時に敷金3ヶ月払ってくれればそれでいいと言ってきた。そんな妥協案では納得しないよ。自然使用における経年劣化に関しては借り手はそれを負担する必要はないのだ。つまり敷金3ヶ月もかかるわけないのだ。仮に何らかの理由でそれだけかかったとしても、それは結果であって、最初から無条件にそういう契約をするのはおかしいし、到底納得できない。

 私は大家には諭すように話した(偉そうな賃貸者だな)。結局私も折れて、退去時に2ヶ月分は払う事にしてやった。しかしそれ以上はこちらに過失がない限り払わない、とそういう契約にすることで合意した。

 これは決してゴネ得ではない。当然なのだ。みんなそのことを知らないで、損しているだけだ。貸し手もそう思い込んでいるだろうから始末に負えない。宅建協会もきちんとした指導をしたらどうなんだ。

 大家と不動産屋、それぞれ数回交渉した。疲れた。不動産屋も最初の電話を除いては、下手であった。しかし実態は平気でそんな契約書を使ってるところだから、被害者は多いのではないだろうか。みな泣き寝入りしてるか、しょうがないと思ってるかだろう。

 月曜日本契約に行く。その時は私も行く。後何点か気になる箇所があるので、それも言うつもりだ。いくら下手にこられても、所詮は悪徳に近い業者だ。臆せず言いたい事は言ってやるつもりだ。


5月30日

 宣戦布告

 ああ、書こうとしたらいつの間にか酔ってる。この続きは明日。勝った事だけここに記してわしは寝る。今は午前3時だ。我奇襲に成功せり。ああ奇襲じゃないな。正攻法だった。意味分からんかな、おとといの日記に書いたとおり不動産屋に文句をぶちかましたという事。そして圧倒的な勝利を収めたという事です。


5月29日

 荷造り

 気合を入れて荷造りを敢行した。妹と母も来てくれた。私は自分の書斎から始めた。大量の本がダンボール箱に入れられ、その数は10箱くらいになった。本当はこれらの本も売ろうかなと思ったのだが、思考や記憶の確認に役立つだろうと思いなおして、ある程度選別して残ったものは持っていく事にした。それでも数である。

 次に妹にも手伝ってもらって、2機のエアコンの取り外しをした。業者に頼めば取り外しと取り付けで1機1万くらい取られてしまう。計2万だ。あほくさい。それなら自分でやったほうがいい。言っておくが私はこれくらいのことはお茶の子さいさいなのだ。

 しかし疲れた。各自の獅子奮迅の活躍により、大方終わった。後4日もある。家人と力をあわせれば楽勝だろう。


5月28日

 話が違う

 朝から家人は新居の賃貸契約を交わしに出かけていった。私はその間詩月の面倒を見なければならない。それはいいのだが、朝から泣き喚いて、大変だった。ずっと抱いたり、ミルクをあげたり、おしめを替えたりして、瞬く間に昼になってしまった。

 新居の大家は家人の昔の同僚である。色々注文をつけて、それでもいいというので契約しようと思ったのだ。例えば、敷金はいらないとか(退去時に掛かった費用の清算と言う形でいいと言われた)、契約は入居してからでいいとか、鍵はもう渡すからいつでも入居していいとか、つまり大家と直接交渉していたのだ。

 家人が帰ってきた。話が大分変わっていた。まず敷金のことだ。まあこれは最初にはらってもいいとは思っていた。その場合分割でもいいと言っていたからだ。しかしこの件について不動産屋が(結局契約書等の問題で大家の知り合いの不動産屋を通すことになったのだ。これだって、直接契約すればいいのに、と私は思っていたのだが。不動産屋への手数料はいらないというので了解したが)、敷金分割なんて普通はないんだけどねえ、とほざいたらしい。契約の場には家人の同僚の大家もいたのにもかかわらずである。

 おいおい、お前には関係ないだろ。敷金は家主が決めるものだろうが、でしゃばるなよ。

 次に契約の問題だ。何と入居までに連帯保証人2名を見つけてきて、契約書に署名捺印と印鑑証明を提出してくれと言われたらしい。

 おいおい、契約は後ででもいいと大家が言ったのだし、それでこちらものんびりしていたのだぞ。仕切るなよ。時間があまりないじゃないか。しかも連帯保証人2名って何だ?普通1名だろ。連帯保証人制度すら、俺は気に食わないのに、2名もかよ。連帯保証人制度は自らの責任を連帯保証人にほっかぶらせる悪習だよ。

 次は鍵だ。家主である家人の同僚が、鍵はいつでも渡すよと言っていたのだぞ。何でお前が預かって管理するんだよ。

 まあ1万歩譲ってここまでは大目に見よう。まだまだ続きがあるのだよ。何とこいつは連帯保証人になってもらう予定のわしの実家に名前も名乗らずに確認の電話を入れたらしい。電話はいいよ。しかし己の素性も名乗らず、わけも言わず、いきなり、わしの親であることと住所を確認してきたらしい。失礼にも程があろう。

 さらに契約書に(これは私の妹が発見したのだが)こう書いてあったのだ。

 「室内の壁がクロス張りになっている部分については、入居期間に関係なく汚れがある場合は勿論、日常生活による自然の汚れも全額借主の負担でクロス替えをする。また水回りの清掃、配水管の清掃などのクリーニングも全額負担とする。」だってさ。

 何これ?こんな契約書初めて見たわ。ここまで借主に負担を強いるのか?しかもわしらは今まで直接大家と交渉してきたのだぞ。お前の仲介によってこの物件を探したのではないのだ!

 後からでしゃばって、四の五の言うな!大体大家も何か言えよな。いっしょにいたんだろ?

 妹に言われなかったら見逃していたかもしれない。感謝しよう。不動産屋をどやしつけようと私は電話を手に取った。しかし大家と懇意の業者だったら、対応方法も変えなければならない。家人に確認させた。特に義理はないという。しかも契約書に関して文句を言うと、確かに、と納得してくれた。こうなったら全力で不動産屋に文句を言える。私は電話した。誰も出ない。再度かけなおした。誰もでない。休みなのか?全く使えん業者だわい。

 明日、かけなおすか。とにかく契約書は書き直させるつもりだ。がたがた言うなら、直接大家と契約してやるわ。

 いい加減で、しかも何の苦労もしてないくせにいっちょまえに仲介手数料とるんじゃないっつうの。この手数料は結局大家が払ってくれるみたいだが。そんなことするくらいなら、直接契約交わせばよかったのにな。

 6月2日までに再度不動産屋を訪れて、連帯保証人の署名捺印がはいった契約書で契約しなければならない。その時は私も行く。ある意味楽しみだわい。


5月27日

 決定

 引越しの業者が決まった。結局4社に見積もりをしてもらった。不思議とだんだんと安くなっていった。最初のは7万4千円、順に7万、5万8千、5万と下がっていった。最後のところは個人でやってるような小さなところだったが、結局そこに決めた。単純に値段で決めたのだ。

 競争に敗れた3社は4トントラック、人数4人で見積もりをしていたが、最後のは3トン、2人だった。その分時間はかかると思われるが、私は安さに弱いのだ。無事に引越しできさえすれば、文句はない。私も手伝うつもりだし、何とかなるだろう。

 明日から本格的な荷造りを始めたい。


5月26日

 夕食

 鰤の照り焼きと、なすの肉味噌和えを食した。鰤は昨日義父が持ってきてくれたものだ。

美味かった。


5月25日

 引越しの準備

 そろそろ引越しの準備をせねばと言うことでやっと私たちは重い腰をあげた。まずは引越し業者の手配をしなければならない。私はネットで引越しサイトを探し、そこの見積もりサイトに登録した。荷物等の条件を入力し、後は数社の業者の見積もりを待つ、というシステムである。東京から越してくるときもこれを利用した。まあその時は結局違う業者を自分で見つけたけど。

 なるべく安くあげたいからな。金曜日に以前家人が利用したある業者に見積もりしてもらったが、何となく高く感じたので、さらにアクションを起こしたという訳だ。その業者はおとといここに登場した、従姉の知り合いの業者なのだが、今回は破格の値段ではなかったようだ。

 それから本を売った。200冊あまりの本を処分した。これらはここ1年で購入したものだ。まあほとんどが古本屋で買ったものだが。6千円で売れた。まあそんなものだろう。予想では2千円くらいと思っていたからうれしい誤算だった。

 夜になった家人の父が遊びにきた。まあ手っ取り早く言えば詩月に会いにきたのだろうが。詩月が生まれる前はほとんど来る事もなかったのだが、生まれた途端によく来るようになった。やっぱり孫がかわいいのだろう。

 予定ではあと一週間後に引っ越すつもりだ。やや後手後手に回っているが、何とかなるだろう。

 細かい移転の手続きが面倒だが、それもぼちぼちやっていかなければならないな。荷造りなんて気合を入れれば一日でできる。乳飲み子を伴っての引越しは大変だが、ここよりは便利になるし、家賃は安くなるし、実家も妹の家も近くなるし、いい事尽くめなのだ。ここは新築マンション、あちらは築30年以上もたつ古マンションだが、内装はきれいにしてあるので特に不満はない。南向きではなく東向きであることと、2階であることを除けばね(私は3階以上がよかった)。

 明日から急ピッチで事を進めなければな。


5月24日

 大騒ぎ

 午前中は大概寝ている。早朝に寝るからだ。その貴重なる睡眠を妨げられた。詩月によってではない。ある来客によってである。今日は家人の友達2人が来る事になっていた。その子供も2人来るという。男の子2人だ。これはまた騒がしいのなんのって。私は友達が来ても十分な睡眠をとったことを確認するまで寝ていようと思っていた。そっちの方が相手も気を使わないだろうから。しかしそんな悠長な事を実践する余裕すら与えられなかった。やっぱり男の子は元気だ。仕方なく起きた。

 私は軽く挨拶をして、朝飯を食って書斎にて仕事をはじめた。ややうるさかったが、まあそれほど気になったわけではない。しかし放っておくと、だんだん暴れ太鼓と化し、ベランダ越しに私の書斎に入ってくるわ、ハムスターをケージから勝手に出して遊ぶわ、マンションの外にでて、なぜか靴下びしょびしょで帰ってきて、そのまま家に入るわで、まさに無法地帯となっていた。

 以前の私だったら、腹を立てていたかもしれないが、今では子供を持つ親の身である。全然怒りは湧いてこなかった。まあ所詮他人の子であるから、かわいいとまでは思わなかったが。

 いつのまにか子供に対して、懐が深くなっていたようである。しかし男の子は元気で動き回るから育てる方も大変だな。詩月は今のところおとなしい。ミルクをおねだりするか、おしめ交換を要求する時くらいしか泣かない。たまに寝ていて急に泣き出すことはあるが、怖い夢でも見たのだろう、抱っこしてあやすとすぐ泣き止む。

 彼女らは夕方前に帰った。嵐はやっと去っていった。


5月23日

 面接?

 天神まで仕事をもらいに(?)行った。仕事を紹介してくれた人は、私の従姉で子供の頃から知っている。私が東京に行っている間はあまり会う機会もなかったが、福岡に来てからはその機会も多くなった。

 仕事はホームページ関連で、その立ち上げ、更新などの手伝いをするというものだ。ここを見てもお分かりのように一応少々の知識はあるつもりだ。(本当か?)それを見込んでのことらしい。

 その会社は地下鉄の駅前にあった。そこで従姉と担当者に会い、業務内容等の説明を受けた。そう従姉のいる会社なのだ。何となく勝手が違ってやりにくい。

 まあ私にといってはそうやっかいな仕事でもなさそうだ。その場で即決した。最初はバイト扱いということだが、そちらの方が私にとって都合がいい。何せ本業(私のとって)を抱えている身だからな。

 恐らく来週から行くことになるだろう。驚いた事にその事務所には社長と担当者を除くと女性しかいない。この前やった派遣の仕事もそうだった。

 まあともあれ、これで来週から忙しくなる。

 私は天神に来たついでに昔よく通っていた喫茶店にでも行こうかと、足をのばした。しかし青春の思い出のその場所は牛丼屋に変わっていた。そうだよな、あれから20年近い歳月が経ってるのだからな。毎日のように通った店を失い、私はとぼとぼと家路についた。

 特に感傷はなかったが、それでも私の思い出の一つが私の頭の中の記憶にしか存在しなくなったことを思うと、何となくだが寂しい思いだ。

 今度ゆっくりとここらを歩いてみよう。


5月22日

お宮参り

 詩月のこれからの健康と安寧を願って、近くにある産宮神社にお宮参りにいった。私の両親と妹も駆けつけてきた。衣装は家人の元会社の人から借りることができたので、それを持参した。

 特にお払いとかはしない。ただお参りするだけだ。私はそれでいいと思っている。しかも私は伊勢神宮までお参りしている。これ以上のところはないだろうというところである。

 神社自体は小さな趣ではあったが、その縁起は名前のとおり安産の神である。もう生まれたから安産は関係ないだろうと言われるかもしれないが、そうではない。安産とは苦しまずに子供を産むことという意味だけではない。それは子供は成長するまでの永続的なものなのだ。成長して子供から大人になるまで、それは続く。

 可愛い衣装を着せて、お参りをした。写真も撮った。我が娘詩月は寝てしまっていたが、寝てるとき、すなわち無心(まあ子供は無心だが)であったがゆえ、神の効力は何事にも妨げられることなく詩月に入っていっただろう。

 その後我が家で夕食をとった。お好み焼きだった。私はまたしても焼酎を飲みすぎて、浮かれ調子だった。

 明日は久し振りにスーツを着る。


5月21日

 ものぐるほしけれ

書斎にてぼーつとしてゐる。酒を飲み乍ら、煙草を吸つてゐる。机の上の空氣清浄機が唸つてゐる。

遠くの方から、澄み切つた深夜の空氣を切り裂ゐて救急車のサイレンが聞こえる。今丁度0時である。

……3分過ぎた。時々目を瞑つてみる。頭の中は空つぽだ。グラスを傾ける度に氷が硝子を滑り、音をたてる。そしてまた酒を注ぐ。

他に何もする氣が起き無ひ。時折キヰボオドを叩くのみである。

ある會社から仕事し無ひかと誘はれてゐる。明後日説明を聞きに行く。仕事内容はWEB關係だと言ふ。

知人が離婚調停を行ふらしひ。昔から知つてゐるだけに今後だうなるか、やや心配である。

トイレに行きたくなつた。今日の日記は終はりだ。今は0時18分。おやすみ。

ああいかん。このまま終わったら狂ったかと思われるな。俺は一見破天荒に見えて実は計算高いのだ。色々な事をちゃんと考えておる。

そのぎりぎりの線で全てを納得させているだけに過ぎない。つまり境界線を知っているのだ。分かるだろうか?

毀誉褒貶あい半ばする38歳だが、バランス感覚だけは失ってないつもりだ。


5月20日

 パソコンを前にして

 日記を書こうとして、いざパソコンの前に座ったはいいが、何も思い浮かばない。変化なき日常がそうさせるのだろうが、今のご時世にこんな能天気な事言ってるのは、いかかなものか。

 あせりと不安が入り混じっている。これは今の状況だけの問題ではない。これは何も今の状況だけがそうさせているのではないだろう。

 私は今38歳だ。ここに何かしらの原因があるのではないか。普通40歳くらいになると、何となく先が見えてくる。そう20代のころとは明らかに考え方、感じ方が違ってきている。

 孔子は40にして惑わずといった。そうなのだ、不惑なのだ。しかし、これは惑うことの逆説ではなかろうか。つまり40は惑う時期なのだ。順調に来ている人だって、このままでいいのだろうかと思うだろうし、またそうでない人も、このままではいかんと思うだろう。つまり人生の半ばにあたり、己の人生を考え直す時期なのだ。 

 ここあたりで有名な作家は多く自殺している。これは偶然なのだろうか。

 中途半端な時期、それが今なのだろう。そして私はさらに中途半端である。


5月19日

 ドストエフスキー

 「罪と罰」を読み始めた。これは大学の頃読んだ事がある。その時は面白くないなという感想しか持たなかった。当時の私はレイモンド・チャンドラーとか、ハメットとかまたはエドガー・アランポーとかを好んで読んでいたから、毛色が違うものに拒否反応を起こしていたのかもしれない。

 当時のロシアの背景とか、社会情勢を加味して読まなければならないと思い込んでいたのかもしれないな。もちろんそれも大事だが、それだけでここまで読み継がれるわけもなく、これは19世紀文学の傑作として未だ、評価は高い。

 少し前に「地下室の手記」を読んだ時には、難しいというか、読みにくいというか、面白くないというか、そんな感想しか持ち得なかったが、「罪と罰」の原型だと思えば、納得がいく。

 詩月を私のベッドに寝かしつけて、その横で寝転びながら読み始めた。それがいけなかった。ある程度まで読み進めて、だんだんとこの小説に引かれていった時、隣でぐずり始めたのだ。こうなったら読書どころではない。仮に自分の書斎で読んでいても、私は詩月の小さな鳴き声とかに気づき、すぐ駆けつけてしまうから、結局同じ事なのだが。

 今は隣で家人と寝ている。家人は詩月がぐずって寝ようとしないと、添い寝をする。しかしいつも家人のほうが先に寝てしまうのだ。詩月は薄目を開けて起きていることが多い。

 全くどっちが添い寝してもらってるのか分かりはしない。

 夜中は静かで、私にとって自分のために使える時間といえるのだが、ちびちび飲んでいる酒のせいで、どうも有効に使えていない。頭が曇ってくるのだ。だから読む本も軽いものになってしまう。特に小説は駄目だ。これが、学術書とか論文とかなら不思議と読めるのだが、小説はじっくり読みたいので、最初からあきらめてしまう。

 これが創造されたものと、知識の吐き出しとの相違だろう。よってもちろんくだらない小説なら読めるが、そんなもの読む気になれない。

 今は23時。さてこれから何をしようか。


5月18日

 朝から

 朝の8時に家人に起こされた。廃品回収の日だという。ここは毎月1回古新聞や空き缶などの回収を行う。月1回ですら少ないと思っているのに、何と雨の日は中止なのだ。3月4月はちょうど雨だった。雨が降ったら翌月まで延期なのだ。繰越繰越である。よって大量の廃品が我が家にはあった。もちろんここらの住人も同じだ。

 だったら、回収の日ずっと雨だったらどうすんのだ。12ヶ月ずっと雨だったら廃品を家に寝かしておけとでもいうのか。せめて違う日に延期するとかしろよな。全くなってない。

 私は2時間くらいしか寝ていなかったから、不機嫌だった。家人は私に向かって酒臭いとのたまう。しょうがないだろ、酒が抜ける前に起こされたんだから。

 大量の廃品を出し終えた私は再び寝ようとベッドにいった。しかし目がさえてしまっている。仕方なく朝刊を読み始めた。しかしやはり眠い。しかも酒が残っている。一通り読み終えると、ベッドに倒れこんだ。起きたのは昼過ぎだった。

 それから書きかけの小説にむかい、原稿用紙5枚くらい書き終えると、詩月が隣の部屋で泣き始めた。それを合図に私は執筆をやめ、詩月のおしめを替えてやり、そのまま詩月の横で本を読み始めた。「日本の論点」という小難しい本だ。

 途中買い物行かされたりしたが、おおむね充実した1日であった。私は8時間は寝ないと調子が出ない。昨日4時頃寝て、一旦起きて、また寝たので、それを合計すると、7時間くらい寝ただろうか。まあ許容範囲である。私は完全な夜型人間なのだ。俺の知り合い(あほ。あだ名は120という)で早寝早起きしたほうがいい、と余計な忠告する奴がいるのだが、ほっとけと思ってしまう。人にはそれぞれ自分に適した生活サイクルというものがあるのだ。

 しかし私にあったサイクルを会社勤めで求めるのは難しい。よって私には自由業か夜の商売しか出来ないのだ。まあ単なる夜更かし人間の、惰眠をむさぼる怠惰な人間なのかもしれないが。


5月17日

 再び

 今日から心を入れ替えて、また元の様な生活に戻ることを決心した。

 以上!


5月16日

 お風呂

 今日初めて詩月と一緒に風呂に入った。同じ湯船につかったのだ。今まではベビーバスだったのだが、一ヶ月過ぎたので、医者からオーケーが出たのだ。

 まだ首も座ってないから、これが難しいのだ。首の後ろを押さえつつ、耳に水が入らぬよう親指と中指で耳をふさがねばならない。まあこれはベビーバスでもやっていたから、慣れてはいるが。

 それから体を洗ってやる。私は椅子に腰掛けて、両足を閉じ、そこの間に詩月の体を乗せる。頭は膝のあたりにきている。ガーゼで軽く優しくふいてやる。ここまではいい。問題は背中を洗う時である。うつぶせにさせて、あごは私の腕にのせ、手は前のほうに伸ばしてやる。ウルトラマンが空を飛ぶ時のようなカッコウだ。体勢に無理があるが、何とかできた。次は私が自分の体を洗う番だ。しかし詩月はどうする。家人に預けるしかない。同時に体を洗えるようになるには、詩月がもうちょっと大きくなるまで待つしかないな。

 結構重労働だ。しかしお湯につかると気持ちがいいのか、泣く事もないし、上機嫌になる。

 後10年もすれば、一緒に入りたがらなくなるのだろうな。


5月15日

 色々な言葉にて

(名古屋弁)

最近全てにおいて怠けとゃあ。これじゃいかん。特に何かをこくでもなし、ただだらだらと時間をつぶしているような気がこく。

丸山健二のように生きようと決心したのに、その真似事すら実行してん。

せめて今日からでもやり直ほう。

ああ本当に俺って駄目だがや。自分に猛省を促さなけにゃ。

(大阪弁)

きょうびみなにおいて怠けとる。これやいかん。特に何ぞをするでもなし、ただだらだらと時間をつぶしとるような気がするちうわけや。

丸山健二のように生きようと決心したのに、その真似事すら実行してへん。

せめて今日からでもやり直そうわ。

ああホンマに俺って駄目だな。オノレに猛省を促さなければ。

(栃木弁)

最近全てにおいて怠けてんべぇ。これじゃいかん。特に何かをするでもなし、ただだらだらと時間をつぶしてんべような気がすんべぇ。

丸山健二のように生きようと決心したのに、その真似事すら実行してねぇ。

せめて今日からでもやり直そうべ。

ああ本当に俺って駄目だな。自分に猛省を促さなければ。

(松本弁)

最近全てにおいて怠けているだ。これじゃいかん。特に何かをするでもなし、ただだらだらと時間をつぶしているような気がするだ。

丸山健二のように生きようと決心したのに、その真似事すら実行してねぇだ。

せめて今日からでもやり直そう。

ああ本当に俺って駄目だんな。自分に猛省を促さなけりゃ。

(佐渡弁)

最近全てかざて怠けているっちゃ。これじゃいかん。特に何かをするでもなし、ただだらだらと時間をつぶしているような気がするっちゃ。

丸山健二のように生きようと決心したのに、その真似事すら実行してにゃー。

せめて今日からでもやり直そう。

ああ本当においらって駄目だな。自分に猛省を促さなければ

(昔風)

最近全てに於て怠けてゐる。此れぢやいかん。特に何かをするでもなし、たゞだらだらと時間をつぶしてゐるやうな氣がする。

丸山健二のやうに生きやうと決心したのに、その眞似事すら實行して無ひ。

せめて今日からでもやり直さう。

ああ本當に俺つて駄目だな。自分に猛省を促さなければ

(時代劇風)

最近全てにおいて怠けており候。これじゃいかんでござる。特に何かをするでもなし、ただだらだらと時間をつぶしておるような気がするでござる。

丸山健二のように生きようと決心したのに、その真似事すら実行してなく候え。

せめて今日からでもやり直そうでござる。

ああまことに俺って駄目であるなでござる。身どもに猛省を促さなければ

・・・・・・こんな事やっていていいのだろうか。しかも自分で変換したから間違いがあるかも。その土地土地の人、間違っていたらごめんなさい。


5月14日

 我が家の中心

 夜中書斎で本を読んだり、何かを書いたり、パソコンをいじったりしている時、隣の部屋から娘の鳴き声が聞こえると私は、やりかけであってもそれを放り出して、隣の寝室に行く。そしてあやす。それでも泣き止まなかったら、おむつを替えたり、ミルクをやったりしてその時の全神経は娘に注がれている。しかも全く苦にならない。家人は疲れて少々の泣き声では起きない。まあこれは昔からだけど、うらやましい事に眠りが深いのだ。私なんて、鳴き声を書斎ではなく、熟睡中のベッドで聞いても、すぐ起きて、傍らのベビーベッドの様子を伺ってしまう。

 このように今我が家は娘を中心として、生活している。それはこれからもずっと続くのだろう。

 育児の喜びとでも言おうか。こんなになるなんて思いもしなかった。今では家人をほったらかしにして娘ばかりにかまっているのだ。

 子供が出来たと聞いたときは、

(まだ早い)

 と感じ、

 女の子と聞いたときには、

(男のほうがよかったな)

 とか思ってしまったものだが、今ではこの子が生まれて本当に良かったという感覚しか私には存在しない。

 まさに天使であり宝である。


5月13日

 下見

 引っ越す予定の新居の内装工事が終わったと聞き、下見にいった。場所は福岡市内で、こことは比べ物にならないくらい便利なところである。

 外観は古い。築30年は経っているだろうか。

 中に入ってみた。床も壁も綺麗だ。風呂もキッチンも真新しい。そして広い。今のところと同じくらいの間取りだ。気に入った。ここに越そう。家賃は今より1万5千円くらい下がる。この場所でこの家賃は破格だろう。大家は家人の元同僚のおじさんだ。だから安くしてもらったのだ。

 下見の間、詩月は私の両親に見てもらっていた。その後我が家で海鮮バーベキューをした。これは紀伊旅行の時のメニューで私が気に入ったのだった。先の旅行にあった蛤は惜しくも売ってなかったから、加えることはできなかったが、帆立にイカ、えびなどとまあまあの食材はそろえた。

 私はまたまたべろべろになってしまった。


5月12日

 一ヶ月検診

 今日は詩月が生まれてちょうど一ヶ月である。産婦人科での検診に私も同行した。前にも思ったが、豪華な病院である。待合室などは安っぽい長いすではなく、ふかふかのソファーで、座ると腰が沈むのだ。

 まあそんなことはいい。心配なのは家人と詩月のことである。

 結果は双方とも異常なし。先天性の異常もみられないとの事だった。安心した。

 その事で昔読んだある記事のことを思い出した。それは最首悟(さいしゅさとる)という知識人が書いて朝日新聞に掲載されたものだった。この男は全共闘運動に大きく関わり、差別思想の後ろめたさから、「自己否定」の妄想に取り付かれていく。この男は高校時代を学業トップで過ごし、東大に入学し、自分より劣るものや、被差別のものたちを嫌悪する。そしてそういう自分をさらに嫌悪していったらしい。「差別する側の人間、つまり自分が嫌いだ。そうありたくないと思い続けてきた」と言う。ここまでは何となく美談になりうる話である。(断っておくが美談になりうるだけで、こんなもの美談でも何でもなく、単なる思いあがりである)

 それで行き着いた思想が、「障害のある子を持てたらいい。その命の燃え上がりに、少しでも近づけるのではないか」とまあ自分が神であるかのような妄想に取り付かれていく。

 4番目の子供をもうけたときの話である。「ダウン症です」と医者から告げられた時、「ああやっと授かった」と歓喜したという。つまりこういう事だろう。この男は差別する自分に嫌悪感を感じ、それで自己否定せざるを得ない宿命を勝手に感じていた。しかし障害をもった子供が産まれ、つまりは差別されるであろう子供を育てる事で、今度は自分が被差別者になる事ができる。よって自己否定する必要のない人生を送ることができるようになったのだ、と。

 一体この男は何を考え生きているのだろうとしか思えない。被差別の子供を持った事で、差別する側から逃れる事が出来たと思ったのか。障害ある子はこの男にとって免罪符なのか。

 こんな自分勝手な考えを私は唾棄をもって軽蔑する。人間は決して差別する心をなくす事はない。それはある意味個性を封じ込めることにも繋がる。その悲しむべき業を人間は与えられているのだ。この男の考えの底の浅さには人間の業というものへの認識が全くない。そういう業の中で、人は苦しみ、悩み、それぞれの真理を見出すのだろう。

 まあ理屈はどうでもいい。己の心を偽ってでも、(いや本気でそう思ったのかもしれないが)自分を肯定したい男の浅はかな意見を思い出し、改めて憤っただけだ。そして私は素直に母子ともに健康であったことを喜ぶ。それが偽らざる人間の本心であろう。障害を持った子供を授かった場合は、そこに立脚して考え、その中で幸福を追い求めるしかない。それは親と子の逃げようがない問題であって、また考え方、行動次第で結果は大きく変わる。

 何か話が大分それてしまった。当時者しか分からないだろう事を私が述べても、それもまた真実にはなりえない事はよくわかっている。しかしこの男の考えに私は納得できないことも、また真実だ。


5月11日

 世の中変

 私はワイドショーとかの類はまず見ることがない。理由は下らないからだ。どうでいいようなことを殊更大げさに報じて、それがさも重要な、かつ世間が欲しているニュースかのように扱う。それにしたり顔のコメンテーターとかいうよく分からない奴等が滔々と解説をぶったりしている。

 最近では「たまちゃん」だろうか。そんなことどうでもいいじゃないかと思ってしまう。たまたま食事などの時間に放映されてたりすると、見たくもないのに、否応なしに見せられてしまうのだ。

 相当暇なんだろうな、たかがアザラシを見るために大勢の人が現場に押し寄せて、「かわいい〜」だの「針がささってかわいそう〜」だの勝手なことをほざいている。それをテレビ局が取材しているのだ。しかも「たまちゃんを救う会」だとか「たまちゃんを見守る会」だとか大の大人が真剣にそれを論じ、また活動しているにあたっては、あいた口がふさがらない。こいつらマジか?と思ってしまう。

 むかむかしてくるので、食事が終わると、私は席を離れる。こんなくだらない事で脳みそに余計な記憶をインプットしたくないからだ。

 ワイドショーだけではない。下らないテレビ番組が多すぎる。そんなものは一切見ない。昔は暇つぶしに見ていたが、時間の無駄である。低俗で二番煎じで役にたたないものばかりだ。そういうくだらない時間も大切だとかいうばか者がいるが、そんな奴は所詮人生など分かっちゃいない大ばか者だ。私も人生など分かっていないが、少なくともそういう時間が無駄であることくらいは分かっている。

 下らない事に真剣に向かい、この文章を書いている時間も無駄かな。


5月10日

 何を考えてるんだか

 朝刊のこんな記事に私は驚き、また失笑を禁じえなかった。それはこういう記事だった。

 北朝鮮の歴史学会の発表で、豊臣秀吉の「文禄慶長の役」を非難するというものだった。豊臣軍が数十万の朝鮮人民を無差別に虐殺し、文化財も収奪したというのだ。日本は植民地支配でも過去を反省してないと非難する内容で、さらに日本には「拉致問題」を非難する資格はなく、罪多い過去を清算して、国交正常化に努力すべきだという。

 狂ってるのか?豊臣秀吉だって?第2次世界大戦のことを持ち出すことまでは許そう。まあこれだって、すでに清算は終わってるともいえるのだが。まあこの問題はさておき、今から500年位前のことまで持ち出されたら、何も出来ないわ。それじゃあなたたちは、過去に何も過ちを起こさなかったのか?今まで罪を犯したことなきものだけ、あの女に石をぶて、と言ったキリストじゃないんだから。大体国交正常化に全く努力してないのはどっちだ?

 歴史というものは、その記憶を伝えるべき人間が存在して初めて、現代に生きるものたちが実感しうるもので、そんな大昔のことを体験した人も、その記憶を伝え聞く人もいないなかで、持ち出すべきではない。そんな過去を断罪できる人間がいていいとでも思っているのか。

 またそれと「拉致問題」をからめていいとでも思っているのか。全くの別問題だし、また「拉致問題」は今行われている国家犯罪だろう。過去こういうことされたからといって、現在の犯罪がチャラになるとでも思っているのか。

 そんなこと言ってるようじゃ、いつもで経っても平和など訪れないし、国交なんて正常化しない。

 じゃあ日本は今の中国に、過去元寇があった、あれは侵略であり、虐殺である。よって中国はそれを謝罪すべきだし、先の戦争のことを持ちだす資格はない、と言えるのか。まあ元はモンゴル人だから、やや違うかもしれないが、その時は、今の中国を支配していたのだから、国家としては同じだろう。

 どうしようもないな。まあ北朝鮮国家が言ったわけではないから、大問題として取り上げられてないが、それにしてもお粗末すぎる意見だ。

 歴史学とは、その事実を資料によって、後から検証すべき学問であって、過去の歴史から、思想や意見を述べる学問ではない。それを一つの単なる歴史学会とやらが、何を言ってるのだ。北朝鮮の歴史学会というからして、それは国家の意見に沿った発言だろうな。いい加減にしてくれ。


5月9日

 履歴書

 ある企業に就職しようかと思い、履歴書をしこしこ書いて郵送した。書類選考の上面接、筆記試験という流れだ。

 書類選考で落とされるかもしれない。その職種の経験がないからだ。それは国語力と幅広い知識を求められる職種で、事前の問い合わせでもそう言われた。未経験だが、その求めに応じられる自信はある。

 特殊な職種ゆえ応募者は少ないかもしれない。そこがねらい目だ。

 家人が昨日の症状に改善が見られないため病院に行った。乳腺炎の初期症状だと言われたらしい。これは要するに乳腺がつまって乳の出が悪くなり、そのため炎症を起こすというものだ。結構痛みが生ずるみたく、いつも元気な家人が苦痛を隠そうともしない。安静にして頻繁な授乳を心がけ、乳腺のつまりを取り去るしかないのだ。乳はぱんぱんに張っている。はちきれそうだ

 なるたけ休養をとらせるため、私が色々動くしかない。授乳以外の仕事は私がやろう。当たり前だけど。


5月8日

 また来客

 今日も来客ありき。家人の後輩のM子とその友達(子供づれ)。こう毎日毎日来客があったら疲れるわい。まあ家人はそれがエネルギーの源になってるみたいだからいいけど、精神的というより単に肉体の方が疲れるのではないかと心配である。

 夜中熱を発し、乳が痛いと苦しんでいた。乳腺炎かもしれない。やっぱ体が疲れてるのだろう。乳児がいると睡眠もろくに取れないし、知らず知らずのうちに疲労が蓄積してるのだ。私だってろくに寝てないし、疲れを感じてるのだから、家人は推して知るべしだな。


5月7日

 来客

 家人の友人が遊びに来た。彼女は私たちの披露宴の時、新婦友人代表で挨拶しれくれた。

 私はというとまたパソコンの調子がおかしくなり、それの修復に大忙しだった。

 まあ女二人の話もあるだろうから私がいない方がよかっただろう。

 結局パソコンは修復されず、私は深夜まで作業を続けた。特に重大な問題が起きたわけではないが、むきになってやってるうちにますます気になって、意地でも直してやろうと言う気持ちになってしまった。これは昔の仕事に関係あるかもしれないな。まああの時はやる気はなかったけど。

 未だに私に向いている仕事というものがわからない。もしかしたらそういうものはないのかもしれない。何かに直面した時、やる気になれば、すごい集中力を発揮するが、それは長くは続かないのだ。

 私はやはり単なる怠け者なのかもしれないな。愚鈍にも見られるくらい取り組まないといけない事は山ほどあるのになあ。


5月6日

 書きだめ

 今日5月に入ってからの日記をまとめて更新した。疲れた。やはり日記は毎日書かなければいけないな。まあ旅行に行っていたから仕方ないが。

 しかし年かな、疲れがとれない。やるべきことはたくさんあるのだが、今一体が動かない。中途半端である。


5月5日

 最終日

 既に体はくたくたである。連夜の宴会で体はぼろぼろである。今日は観光もせず帰ろう。家人と詩月も心配だしな。

 松阪から京都へ向かった。私はそこで彼らと別れ新幹線で帰福するのだ。

 うむ道は混んでない。すいすいと車を飛ばした。レンズの車だ。いきなり前方に警察官3人の姿が見え、我々の車を横の空き地に誘導した。一体なんだ?

 スピード違反だった。20キロオーバーだという。何てついてないんだ。レンズは罰金15000円と何点か引かれる。やはり彼にはまだ何かがとりついているのだろうか。

 京都には2時頃着いた。そこで彼らと別れた。どうなるかと思った旅だったが、レンズの憑依騒ぎ意外は楽しいことばかりだった。

 座って帰るために私はます新大阪までたって行った。そこで1時間待ってやっと座れる新幹線に乗り込んだ。

 車内では読書か睡眠で過ごし、7時に家に着いた。疲れ果てた体に鞭打ってシャワーを浴び、ベッドに倒れこんだ。もちろん家人と詩月の元気そうな顔をみて安心したことは言うまでもない。

 夜、義父がきた。私は疲れきっていたので、あまり相手は出来なかったが、義父も今日壱岐から帰ってきたのだという。タフだなあ。

 今日は酒もあまり飲めない。体が受付けない。早く寝よう。

 来年は家人と詩月も連れて行きたい。


5月4日

 伊勢神宮

 昨夜の恐怖をおし抱いたまま私達は伊勢神宮に向かった。レンズにとりついた何かの霊も消えるかもしれないと淡い期待があった。

 ここは多神教である日本の神々の頂点である女性の神、日の神である「天照大神」を祀っている。「お伊勢参り」である。

 まずは腹ごしらえだ。外宮前の店で伊勢うどんを食べた。おおこれはうまい。初めて食った味だ。やや讃岐うどんに似ている。大満足である。

 いよいよ伊勢神宮だ。私達は豊受大神を主祭神とする「外宮」から参った。ここは食をはじめとするすべての産業の守り神である。

 それから天照大神を主祭神とする「内宮」に行った。おお何という美しさだ。圧倒的な自然に抱かれた聖地だ。

 正宮に立った。ここは「式年遷宮」といって20年おきに隣に神殿から何から全てを建て直すという方式をとっている。これは1300年続いているのだ。それはそうだ。茅葺きで掘っ立てなのだ。耐久力が弱すぎるのだ、それをこういう方法で永続させているらしい。古代の建築方法なのだ。それを現代でも目にすることができる。今目の前にあるのはたかだか10年前に作られたものであるかもしれない。しかしそれは大昔から続いている形なのだ。1300年前の人もこれと同じものを目にしたのかと思うと、歴史の流れを感じてしまう。

 不思議な感動に捉われながら、私達は伊勢を後にした。

 今日のキャンプは松坂である。とりあえず向かおう。天照大神のおかげだろうか、レンズの目に光が戻ってきた。

 到着したのは6時半頃だった。今日は海鮮バーベキューだ。

 全てをセッティングして、ディナーが始まったのは7時半くらいだった。

 まずは乾杯。それから鉄板に帆立を蛤を入れた。バターを忘れたのは失敗だったが、まあ新鮮な魚介類だから美味いはずだ。

 なかなか焼けない。よしイカを入れよう。鉄板は既に熱くなっている。イカはジュウジュウ音をたて香ばしい匂いを放ちながら焼けていく。味付けは塩コショウと醤油だ。口に放り込んだ。美味い。

 帆立も蛤もいい頃合いだ。おおこれまた美味い。酒がどんどん進んでいく。今日はワイン一升瓶と普通のを3本。そしてビールだ。これだけ買っても足りないかもしれないという不安はあった。すでに半分は飲んだ。まだ9時だ。果たして酒はもつだろうか。

 酒は無くなった。ちょうどよい具合だ。ハゲは途中で気持ち悪くなったみたいで、もうテントの中で寝ている。彼も弱くなったものだ。もう40歳だからなあ。40にして独身か。その響きは何か哀れなもの悲しさを感じるな。

 私も眠くなった。寝よう。ふと見るとレンズが携帯電話で誰かと話してる。霊界通信でなければいいのだが。まあ今日のお伊勢参りで奴にとりついた妙なものは消えただろう。


5月3日

 夜中の恐怖

 朝9時に大阪は泉大津港に着いた。東京組とは奈良11時待ち合わせである。しかし私は多分奴等は遅れるであろう事を予測していた。いつもそうなのだ。車だから時間がはっきりしないという事は理解できる。だったら早めに出発して、早めに着いたら車の中で仮眠をとればいいではないか。奴等の計算はいつも大幅に狂う。今回もそうだった。

 私は南海電車で新今宮まで行き、そこからJRに乗り換えた。快速「大和路」という歴史を感じさせる名前の電車で奈良に着いたのは10時半くらいだった。後30分ほどで彼らに会えるだろう。

 メールで到着した旨を告げた。その返事に私は驚いた。何とまだ名古屋を出たばっかりだという。船上においてもメールのやり取りでお互いの動向は確認していたものの、ここまで遅れているとは思わなかった。だから私はしつこくあいつらに絶対遅れるなよ、と何度も念を押していたのだ。私は計画性のない奴を許せない。こういう旅においては時間厳守は当然だし、また最初からこの調子では先が思いやられる。

 私はとっさに車の混み具合等を計算した。このまま奈良にいても3時間は待たされるだろう。その間に大仏でも見に行こうか。しかし今日のキャンプ地は美杉村というところで、ここからは遠く離れている。時間が読めない。

 私は手持ちの時刻表ですばやくあらゆることを計算した。今この時点でのベストな選択は何か?やはり私が動くしかあるまい。2つの地点と移動手段を考慮して、私は伊賀上野まで行く事にした。奈良からは1時間くらいだ。しかし列車の本数が少ない。1時間に1本くらいなのだ。1時間くらい待たねばならなかった。しかしそれでもここで愚かな男2人を待つよりもよっぽどいい。私は時間にルーズで計画性のない奴等をののしりながら、奈良を発った。

 その列車は2両でしかも電化されてなかった。うむローカル線らしくていい。私はどういう状況においても常にポジティブに物事を考える。ここが哀れな男2人との決定的な差だろう。

 そしてその哀れな中年2人とやっと会えたのは1時頃だった。やつらのせいで今日は観光はやめにした。予定が大幅に狂ったからだ。とりあえず、美杉村に向かうことにした。

 着いたのは5時過ぎだった。それから買出しに行き、落ち着いたのは7時くらいだったろうか。

 宴会が始まった。今日のメニューは焼肉だ。ビール6本にワイン5本を用意した。

 宴会は夜遅くまで続いた。寛大な私はやつらの遅れを許し、しっかりするんだぞと優しく諭した。彼らはうなだれて、弱弱しく頷いた。

 酔いどれの3人は小さなドーム式のテントで川の字になった寝た。深夜3時過ぎに事件が起こった。急にT(レンズ。上の写真の左)の携帯アラームが鳴り出したのだ。

「消しておけよ」

 私は睡眠が妨げられたのにうんざりした。しかし音は鳴り止まない。私は仕方なく起きた。するとレンズが何かをつかもうとするかのように宙にむかって手をばたばたさせている。おいでおいでをしているかのようだ。

「おい携帯はお前の胸ポケットだぞ」

 私はそう教えてやった。しかしレンズは相変わらす空気をつかんでいる。何かが乗り移ったみたいな、奇妙な動きだ。その動作は完全に操られているようで、とても人間の動きとは思えない。ハゲも起きたのか、唖然としてレンズの行動をただただ見ている。

 レンズは焦点の定まらない目で何かを探している。そして両手はいやいやをする子供のように規則性もなく、あちらこちらに動いている。恐ろしい。狂っている。

 私は意を決してレンズの胸ポケットから携帯電話を取り出して、アラームを消した。その瞬間レンズは魂を抜かれたかのように、ばたっと倒れこんだ。死んだのか?いや息はしている。携帯の音に操られていたかのようだった。

 翌朝レンズにそのことを聞いた。彼は何も覚えていないという。

 アラーム音はJRのホームで電車が発車する時に流れる音だった。

 身の毛もよだつ出来事だった。


5月2日

 出発

 家人と娘を置いていく事にやや不安を抱きながら、午後の4時に家を出た。地下鉄で博多駅まで行き、それからJRに乗り換えて小倉まで行った。

 はやく着きすぎたようだ。私は大阪までフェリーで行く。少しでも金を浮かす為だ。小倉から出港地の新門司港までの送迎バスの時間まで1時間もある。私は乗り場のベンチに座って一服した。バスは19時半に出る予定だ。今は18時半である。のんびりと待っていると、私と同じバスに乗るのだろうと思われる人々がぽつぽつと集まりだした。

 結局バスは19時頃に来た。今日は混むだろうということで臨時にバスを増便したらしい。それに乗り、私はバスに揺られた。港まで近いのだろうと思っていたのだが、20分くらいかかっていた。

 フェリーターミナルで乗船手続きをした。海の方に巨大な船が見えていた。結構でかい。

 出港は20時半である。私は2等指定Aというカプセルホテル仕様の客室を予約していた。インターネット割引で9千円くらいである。少し狭いがまあまあ快適だ。雑魚寝よりはいい。

 私は出港前に船内にある風呂に行って、ひと風呂あびた。それから自動販売機でビールを買い、狭い部屋でそれを飲み干した。普段はあまりビールは飲まないのだが、火照った体に流し込むと、生きててよかったと一瞬思えた。

 船は出港した。海は穏やかで荒れそうもない。快適な船旅になりそうだ。ワインに変えた。私はジェフリー・アーチヤーの「大統領に知らせますか?」を読み始めた。彼の作品は久し振りだ。

 船は瀬戸内海をゆっくりと東へ向かっていた。明日はいい天気だそうだ。


5月1日

 薫風

 今日から5月である。大分暖かくなったきた。明日から紀伊半島である。