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6月30日

 呆れた

 今日も呆れてしまった。これっぽっちも説得力のない言い訳されても、余計腹が立つだけだ。何かが脳に入力されても、脳内でゼロ係数で処理されて出力されているのだろう。それくらい何度言っても同じ事を繰り返すのだ。

 ああ全てに腹が立つ。政治にも経済にも馬鹿者にも、そして自分にも。


6月29日

 子供たち

 前々からしなければならないと思っていたエアコンの取り付けをMの協力を仰ぎ、敢行することにした。しかしMも取り付けてないエアコンが1台放置してあるという。まずはそちらからとりか掛かる事にした。すぐ終わるだろうと思っていたのだが、用意されいていた配管の長さが短かったり、道具がなかったりで、結構時間が掛かってしまった。作業が終了したのは夕方だった。これから私の家のエアコン2台を取り付けるのは気分が滅入る。結局それらは来週に持ち越すことにした。

 Mの家で酒を飲むという作業に切り替えた。家人と詩月を迎えに行き、Mの家で酒をご馳走になった。Mには男の子が2人いる。さすがに男の子だけあってやんちゃだ。3歳と1歳の男の子だ。詩月が心配である。案の定可愛がられてしまった。子供は手加減をしらないから可愛がっているつもりでも結構力が入っている。詩月はされるがままだ。そして抵抗できない己のふがいなさにすすり泣きしていた。(そんなことないか)

 Mの子は私にも可愛く思えた。今度はもっと遊んでやろう。ちなみのMとは例のいびきがうるさい高校時代からの友である。

 11時頃帰宅して詩月を風呂に入れてやり、私は執筆に入った。徹夜した。明日の仕事は辛くなるだろうな。それでも今頑張らないとな。

 しかし子供も3人そろえばやかましいな。昔祖父母の家に遊びに行った時の子供が混じったにぎやかさを、今度は大人の立場として体験したような感じだ。少し子供時代を思い出した。


6月28日

 広告

 今日の読売新聞西部版に私が勤めている会社の広告が全面広告として掲載されていた。残念ながら、言葉の使い方の間違いが何箇所かあった。何日か前、その見本を見せられて、指摘はしたのだが、訂正されてなかったようだ。またその時なかった箇所が付け加えられ、それも間違っていた。

 それを今ここで指摘しよう。

 広告文にはこうある。

 「『○○』は野菜の王様ケールの優れた栄養成分に加え、成人が一日に必要なビタミンC100mgを補給できる新しい栄養機能食品。青臭さがほとんどない爽やかな飲み口は、青汁の良さを知りながら続けられなかった皆さまもきっと続けられるおいしさです。ぜひお召し上がりください。」

 さてどこがおかしいかわかるだろうか。一読しただけではわからないかもしれない。と言うことは別にどうでもいい事なのかもしれないが、私としては気になったので一応書いてみる。

  1. 「栄養成分に加え〜」は「栄養成分からなり」か「栄養成分と〜」にしないと文脈がおかしくなる。「優れた栄養成分」を受ける述語がないからだ。
  2. 「新しい栄養機能食品。」と体言止にするのはいただけない。「新しい栄養機能食品です。」が妥当だろう。
  3. 「きっと〜」はいらない。「きっと」は行為が必ず行われるさまを表現する。ここまで言い切っていいのかどうか。「きっと」を使いたいなら「きっと続けられるおいしさでしょう」とかにしないとおかしい。
  4. 最後に「ぜひお召し上がりください」は敬語として間違っている。これは私が見た段階ではなかった箇所だ。「食う」の尊敬語は「お召し上がりになる」だ。「召す」には着る、食うなどの意があり、着る、と食うを区別する為にそれぞれ「お召しになる」と「お召し上がりになる」と表現を整える必要がある。つまり完成された言葉なのだ。ある動詞に「お」や「ご」をつけて敬語にする風潮が蔓延している。まあそれも行き過ぎなければよい。しかしそれをつけた瞬間に後に続く動詞は名詞になってしまうのだ。つまり変格できなくなる。
    例えば「求める」と言う言葉を例にとってみよう。これは動詞であり変格できる。「求めない」という未然形にできる。しかし「お」をつけるとどうなるか。「お求めない」はおかしい。これは「お求め」という名詞になってしまっているのだ。名詞にはそれをうける新たな動詞が必要になる。よって「お求め下さい」もおかしい。名詞に「下さい」をつけても、それは「私に〜を下さい」という意味にしかならない。店にいって「カメラ下さい」などがそうだ。ここは「お求め」にそれを受ける動詞「なる」を加え、「お求めになって下さい」とするのが正解だ。よって「お召し上がりください」は「お召し上がりになってください」と、しなければならない。

  「『○○』は野菜の王様ケールの優れた栄養成分からなり、さらに成人が一日に必要なビタミンC100mgを加えた新しい栄養機能食品です。青臭さがほとんどない爽やかな飲み口は、青汁の良さを知りながらも敬遠されていた方にお勧めできるおいしさです。ぜひお召し上がりになってください。」

 私ならこうする。ちょっとおかしいが原文を生かすとこうなってしまう。まあどうでもいいか、こんなこと。

最後は「ぜひお試しになってください」の方がいいかな。

 似たような例でJR新幹線小倉駅で見つけた例を書いておこう。ホームの吊り看板に「小倉から博多の下りは、指定席も自由にご乗車できます」というのがあった。これは「自由にご乗車になれます」か「自由にご乗車いただけます」でないとおかしい。

 今度見たときに再度確認してみよう。こんな間違いは腐るほどあるから、誰も気にしてないのだろう。だが曲りなりにも作家を目指している私はいちいち指摘したい。お前のほうが間違っている、という方は連絡してください。まあ私も結構間違っているけど。

 ここまで読んでくれた人はいるかな?疲れて途中でやめた人の方が多いのだろうな。


6月27日

 やっと金曜日

 明日は休みだ。気持ちも軽くなる。ちょっとした浮かれ気分だ。普通週末は飲みに行くのが、私にとって定番だったのだが、(会社員時代)結婚して子供が生まれてからは、そういう気もあまり起こらない。

 それはそれでいい事なのかもしれないが、なぜか寂しい。

 結局古本屋に寄って帰った(わびしいのう)。そういえば「今日の読書」も更新してないなあ。読んではいるのだが。今日は「日本の論点」をいう文春の新書を読んだ。


6月26日

 小細工

 私に与えられた会社のパソコンは新品である。しかし仕事に必要な顧客管理のシステムが組み込まれていない。新たに組み込むとなると、金がかかるらしい。まあそんなのこのシステムを提案した会社に言えば、何とかするのだろうが(金はかかるだろうが)、その気配はない。だからいちいち顧客データーの確認をしたいと思ったら、誰かの席にいってパソコンを借りなければならない。

 面倒だ。大体空いている席は決まっているのだが、そこにわざわざ行くのがかったるい。行ったりきたりしなければならないからだ。

 それで私はその空いている席のパソコンをリモートコントロールできるように小細工をした。まあ小細工というより、あるソフトを組み込み(フリーのソフト)自分の席にいながらにして、そのパソコンを遠隔操作できるようにしたのだ。これで仕事をしていて、顧客データの確認や入力も自分の席から出来る。

 ただその席のパソコンを誰がが使用していたら、使えない。使えるけど、驚かれるだろう。勝手に動くのだから。後使ってなかったとしても、その席のパソコンの画面が誰もいないのに動いていたら、たまたまそれを見てしまった人から

「ハッカーか?」と勘違いされるかもしれない。

 こんなことしなくても堂々と自分の席からできるように、早く何とかして欲しい。


6月25日

 給料日

 今の会社に行くようになって、初めての給料日であった。実質2週間しか働いていないから、金額は微々たるものだったが、それでもうれしい。

 みんなでパーっとどこかへ繰り出すという事はなかった。まあそんな雰囲気のある会社ではないから、しょうがあるまい。

 自宅でパーっとやるか。


6月24日

 掲示板

 6月19日の日記について色んな意見が掲示板に書かれていた。その日の日記は言い合いした時に書いたものであって、私の感情は高ぶっていた。つまり極端な意見を感情的にぶつけていたのだ。その後の日記を見てもらったらお分かりになると思うが、その日だけの、この日記の主題でもある、心情の吐露を書き綴ったに過ぎない。実際その後は、私と家人の意見は一致している。

 呆れたと書いたのは、ただ単に里帰りしたいと家人が言ったからではない。そこには書かれていない色々な事の重なりに呆れたと書いたまでだ。要するにあれは、喧嘩した時に勝手に思う自己正当化である。それをそのまま書いただけだ。それを事情も知らないものが、恣意的に意見を書くから、私は腹が立っているのだ。

 少しでも読解力があれば読み取れるはずである。どっちが正しいとか、間違っているなんて他人にはわかりっこない。なぜならそこに至るまでの経緯や、そこからの調整の如何を知らないからである。

 いちいち説明して、皆さんはどう思う?と私が聞いたならともかく、複雑にからみあった他人の家庭の内情に無責任な意見は迷惑なだけだ。

 まあ、どうしても意見等を述べたいなら、双方から事情を聞かなければならないだろう。だから私は一方的な言い分からは判断できない、という理由で第三者としての意見はなるべく言わないようにしている。言ったとしても遠慮がちに言うだろう。そうしないと事の判断を見誤るからだ。

 少ない情報を勝手に咀嚼して、偉そうな事を言うのは思い上がりである。

 何てな。俺が偉そうなのかな。まあ家人のことを慮って書いてくれたのだろうな。そこには感謝しよう。

 ともかく、私と家人はいつもどおりである。こんな事書いてたら誰も掲示板に書かなくなるかな。


6月23日

 梅雨

 雨だ。正直言って鬱陶しい。ある人にとっては恵みの雨かもしれないが、私は嫌だ。特にこの季節のじめじめした蒸し暑さを伴う雨は嫌いである。

 今週末にはエアコンを取り付けよう。

 そうそう私は今バス通勤だ。雨の日は時間通りに来ない。今日も15分遅れだった。遅刻寸前だったよ。


6月22日

 人の気配

 深夜書斎で書き物をしていると、時折廊下から物音が聞こえる。私の書斎はマンションの廊下に面しているから、窓を開けていると、外の気配が感じられるのだ。

 自分の家に戻る人の足音や、ドアの開け閉めの音、そしてたまに人の声もかすかに聞こえる。私はそういう時、思わず微笑んでしまう。今こうして深夜独りで書斎に閉じこもっていても、生身の人間の気配を感じることに、なぜか安心感を覚えるからだ。それは恐らく他人の気配を感じることにより、集合体の一員であるという自己認識を改めて覚えるからではなかろうか。

 簡単に言えば、他の生命の活動を想像させられることによって、そこにある己の知る由のない他人の生活に不思議な共感を見出すからだろう。

 夜行列車に乗って、窓の景色の一部と化している民家の仄かな明かりを見たときに感じるものと似ているかもしれない。

「あの家では今何をているのだろう」とか

「二階の部屋の明かりは受験生のものだろうか」とか、決して見ることの出来ないある一つの生活への想像が、膨らむ。しかしすぐそのうち忘れてしまうものでもある。そう人間の生命の息吹を一瞬感じることが、不思議な微笑ましさと安心感をもたらすのだ。

 それはどうしても他人とのつながりを捨てきれない人間の、いや生命体の、与えられた、生きていく上での自己認識のためのものかもしれない。

 前の書斎では感じることのなかったガイヤ理論を、なぜか感じさせられた(大げさか)。


6月21日

 西新へ

 二日酔い気味で疲れていたのだが、西新へ出かけてしまった。しかも歩いてである。買い物などをしたのだが、疲れた。


6月20日

 大宴会

 私の両親や妹夫婦、従姉が我が家に来て大宴会となった。みんなへろへろだった。もちろん私もだ。いつの間にかベッドに倒れこんでいた。


6月19日

 またか

 家人が詩月を連れて実家(壱岐)に帰りたいという。よくある「実家に帰らせていただきます」といった類ではなく詩月を親戚などに見せたいかららしい。私はそれを断固として許さない。

 何と言っても詩月はまだ生まれたばっかりである。幼いし、体も弱い。車での移動でも避けるべきなのにフェリーに乗らなければならない。そんな事もわからないのだ。自分の事ばかりで詩月の事を考えてない。

 気持ちはわからんでもない。しかし優先されるべきは詩月の健康である。船の上で何かあったらどうするのだ。それに疲れてかわいそうだろう。勝手すぎる。せめて1歳になってからすべきである。

 この事は以前にも話しあったはずだ。自分の欲望を満たす為に幼い我が子を危険にさらすような真似は親として避けるべきだろう。冷静にものを考えることの出来ない女だ。私がまだダメだと説明しても納得しない。挙句には、もうどこにも連れて行かない、と捨て台詞までいう始末だ。

 久し振りに家人にあきれ果てたよ。


6月18日

 台風

 季節外れの台風が九州に上陸した。交通機関も地下鉄以外はマヒしていた。私は何とかバスに間に合ったが、後10分遅れたら会社に行けなかったらしい。

 帰る頃には収まっていた。


6月17日

 妹が来た

 先週末から沖縄旅行に夫婦で行っていた妹が土産を持って遊びに来た。

 今日の夕食はゴーヤ尽くしであった。苦いがうまい。妹は詩月を可愛がってくれる。まあ当たり前かもしれないが。可愛いんだからしょうがない。

 ゴーヤを3本置いていった。明日の夕食も恐らくそれを使った料理だろうな。スタミナつけて頑張ろうっと。

ゴーヤの青汁は凄そうだな

 


6月16日

 生きがい

 毎日朝起きなければならないので辛い。といっても8時起きだが。しかし一度起きてしまえば大丈夫だ。後はシャワーを浴びて、朝刊を読みながら朝食をとって、スーツに着替えて出かけるだけだ。

 後は何てことない。

 人間が生きていく上で最も重要で、かつ必要なものとは何か?

 答えは簡単だ。それは生きがいをもってるかどうかだ。無意味にだらだらと生きているように見えても、実は、それぞれ小さいかもしれないが、何かしらの生きがいを持っているだろう。いや生きがいを見つけようとするだろう。それは極々ありきたりなものかもしれない。例えば仕事が終わっての一杯を楽しみに生きている人だっているだろう。それだって生きていく上で、辛い仕事の代償としての小さな楽しみである。それがあるから頑張る事が出来るのだ。

 では、何の生きがいもなくただ単に生きている人はどうすればよいのか。こういう人は多いのではないだろうか。だが、前述したようにそれでも生きていると言う事は何かしらの意味を見出しているからに他ならない。それは今このときには感じないかもしれない。未来にきっといい事があるだろうという希望的観測かもしれない。その矮小な希望があるからこそ人間は生きていけるのだ。

 自殺者が増えている。大方の理由は、生きていてもしょうがないから、絶望したから、希望を見出せないから、とかだろう。しかしそれは裏を返せば人生に生きがいを感じることができたら、希望があるなら生き続けたい、と言うことだろう。

 生きがいとは自分でそう感じればよいことであって、定義などない。

 私は、生きがいとは自分でそう感じるように仕向けることだと思う。命あっての物種である。

 そしてそれは簡単な意識の操作で持ちえるものだ。どうせ生きなければならないなら、何かしらの生きがいを持つべきだろう。じゃないと人間でなくなる。

 今自分の胸に手を当てて、生きがいをもっていないと思った人がいたら、これから見つければよい。一生見つからないかもしれないが、そう思い続けるだけでも大分違う。

 それでももう生きていく自信がない、と言う人は勿体ないが、死ぬ事を逆の生きがいとして自らを抹殺するということもあり得るかもしれない。勿体ないというのは、その時の感情が永遠に続くわけないと、私は考えるからだ。

 感情をもった生物として生まれたからには、色々選択肢をもつことは当然である。難しいこと抜きに、自分の幸せをつかもうとするだけでいい。そしてその幸せは人それぞれ違うと言うことだ。

 私は今、酒を飲んで好きな本を読んでいる。一つ屋根の下には家人と詩月がいる。それだけで十分である。その上で自分の為の努力をしたい。

 睡眠不足で酔っ払っているので、今日の日記はややおかしいかもしれないなあ。


6月15日

 西新へ

 今日は家族で外出した。西新という比較的にぎやかな街に行った。ここからは歩いていける。そう15分くらいだろうか。詩月をベビーカーに乗せてのんびりと歩いた。車の往来に気をつけながら、散歩気分を味わった。

 私は散髪に行き、家人と詩月は家人の元いた会社に行った。それから私は使い捨てコンタクトが切れたので買いに行った。てっきり前のと同じものをすぐ売ってくれるものだと思っていたのだが、何と眼科の診察を必要とするようだ。おいおい聞いてないぞ。コンタクトはクレジットカードで買おうと思っていたから、私は現金をあまり持っていないのだ。いちいち診察なんて受けないといけないのか!何の為にやるのだ。金儲けか?腑に落ちない。最初に買ったときそう言えよ。ここでも説明責任が果たされていない。使い捨てだから単なる消耗品を同じじゃないか。医薬品ぶって診察料をふんだくるのか。

 じゃあ5年分買っていった人は5年間診察受けないでもいいと言うことじゃないか。目の異常や視力低下にともないレンズが不適切になりうるからと言う理由での診察なら、定期健診を義務付けるべきだろう。買い足す度に診察をうけなければならないなんて、上記の理由から成り立たない。それとも売ってしまったものに大しては後の責任をとらないとでも言うのか?

 腹立ったから医者や受付、コンタクトショップの諸君に
「どれが欲しいのか分かってる客もいちいち診察受けないといかんのか」としつこいくらいに聞いたよ。「そうですねえ」と答えられたから、
「どこの店でもそうなのか」と聞き返したら、
「大抵そうです」と答えやがった。

 おいおい大抵って何だよ?決まってないのか?

 私は理不尽な怒りに刈られているわけではない。もしかしたらお客の安全を思って診察を義務付けているのかもしれない。それだったら購入する時に
「次回お求めになる時は、再度診察いたします」くらい説明しとけ!だったら1年分くらい買っておくわ!

 そういう説明をしてなかった点に怒っているのである。それによって何ヶ月分購入するか変わってくるだろうが!

 こういう不親切、コミュニケーション不足がクレームの元になるのだ。


6月14日

 お休み

 久し振りにゆっくりと寝た。起きたのはお昼であった。のんびりとベッドに寝転がって本を読んだ。まさに至福の時である。今日はどこにも出かけずにだらだらしよう。

 夜お湯を貯めて詩月と風呂に入った。それから書斎にこもり夜中の3時まで執筆した。たまに休憩をとっても、どうしても会社のホームページが気になってチェックしたりした。今のところ大分改善されているようだ。注文も来ている。おお、この調子だ。気にはなるが休日くらいは本業に身を入れなければならない。明日も頑張ろう。


6月13日

 昨日の続き

 今日ホームページに関する関係者が集まった。元請の広告代理店と直接の製作者が来社した。私は経緯をあまり知らないし、直接関わった訳ではないし、バイトだし、何も言える立場ではないが、あまりの出鱈目ぶりに驚いた。

 賠償問題に発展してもおかしくない。先が思いやられる。私が力を発揮できるのは、まだまだ先の話のようである。

 まあこれを関係者が見たら気を悪くするかもしれないが、私は第三者の立場で言いたい事を言う。これから関わっていく中で私にも責任が発生するだろうが、そのときは当時者として発言するつもりだ。

 私はいわば助っ人である(大した力はないが)。客観的のものを見るべき立場でもある。ホームページに関しては、まだまだダメだ。体制が整ってない。

 まあ文句ばっかり書いていても、そこに発展はない。要はこれからどう改善していくかだ。歯がゆいが私が越権するわけにも行かず、ある程度成り行きを見守るしかない。もちろん意見は述べるがね。

 話は変わるが、そろそろ九州芸術文学賞の締め切りが近い。それにも力を入れなければ。


6月12日

 異変

 会社のホームページに異変が起きた。私はこれの管理運用の為にこの会社に来たのだが、これがまたひどい。会社のものとは思えないくらい、不具合がある。これを見たユーザーは不信感を覚えるに違いない。不完全なまま発車してしまったようだ。

 その異変とはページを見るたびに「ようこそ○○さん」の○○に私の家人の名前が常に出てしまう現象が起きた事だ。常に誰がどこで見てでもである。

 これは私がログインなどのテストをしている時に家人の名前を使ったのだが、それがそのまま残り、誰が見ても、そう表示されてしまうようになったのだ。

 おいおい全国に知れ渡ってしまったよ、家人の名前が。どうなってるんじゃい!いい加減にしろよ。製作者とは連絡つかないし、どうしようもない。もちろん本来のホームページの機能は当然果たしていない。この会社は通信販売の会社なのだが、WEB注文も出来なくなっている。

 お粗末すぎるんじゃないか?責任の所在をはっきりすべきだし、早急に修復すべきだ。

 問題点は山積している。今日のことに関しては、私の被害は(家人かな)甚大である。


6月11日

 通勤

 バス通勤である。私はバスが嫌いだ。時間通りに来ないし、道路状況によって変わるからだ。それと電車と違って本などを読もうと言う気になれない。酔いそうだからか。

 平成17年に私の住んでいる街に地下鉄が開通する。それまでの辛抱だな。いや待てよ、通勤などしていないかもしれないな。


6月10日

 気になる言葉

 私の行っている会社で気になる言葉遣いを聞いてしまった。この言葉は昔から気になっていて、よくコンビニとかで聞かされる。若いものに多い。

 それは相手に確認をとるときに「〜でよろしかったですか?」というものである。例えば「この商品でよろしかったですか?」とか「千円からでよろしかったですか?」のように使う。

 これは完全なる間違いである。「よろしかった」と言う言葉は過去形だ。これは「よろしい」の過去形でその元は「よい」だ。「よい」の丁寧表現である。丁寧表現の後に「ですか」はおかしい。

 最悪なのは、今現在やりとりしているのに過去形を使っている点である。しかも「ですか?」は敬語としてもなっていない。正解は「よろしいでしょうか?」だ。もう一つ言わせてもらえば「千円からで〜」というのもおかしい。「から」とは出発点や起点を表す格助詞で、(手段を表す場合もあるが)千円からとはその起点が分からないし、使う場合が違う。千円を先に出して、次に何かを出すのなら分かるが。

 例えば出すべきものが複数あって、まず千円を出して、それから1万円を出すとかいう風に。よってこれは2重の間違いであると言える。正解は「千円でよろしいでしょうか?」だ。だがこれも客に対してはおかしい。素直に「千円お預かりいたします」とか若しくは客がさらに小銭を出そうとしているのが分かったら、黙って待っておけばいいのである。

 私の意見におかしい点があるかね?とにかく「よろしかった」という表現はおかしいのだ。過去形云々と言うより、こういう言葉は文法上存在しない。過去形は動詞を変化させるものだ。形容詞の過去形などない。

 私の言ってることは「よかった」と思ったかね?これは「よい」という形容詞の過去形では?と思っただろ?違うんだなあ。これは「よくあった」つまり形容詞だけじゃ表現しにくい言葉を形容動詞として無理やり作ったのだよ。

 私はバイトでしかも新参者である。注意した方がよかった(よくあった)のかもしれないが、止めておいた。その子は他の言葉使いに関しては丁寧で間違っていなかっただけに「よろしかったですか」の連発が惜しまれる。


6月9日

 昼飯

 食欲がない。昼飯タイムにまともに食えない。会社の人(男)と行っているのだが、私は食欲がない為蕎麦屋とかに行く。私に合わせてくれているみたいで悪い気がする。しかし重いものは受け付けないのだ。

 朝飯は一応食ってから出勤するが、せいぜいサンドイッチ一切れくらいしか食べられないし、腹は減るのだが、軽いものしか食えないのだ。

 お昼時はまだ睡眠タイムだったからなあ、少し前まで。そのせいだろう。

 そのうちガツガツと食えるようになるくらいに体が慣れるかな。


6月8日

 二日酔い

 昨日飲みすぎた。だるいし食欲もない。いかんいかん、最近小説も書いてないし、本も読んでない。こうやって日々の生活に流されてしまうのが私の欠点である。

 反省。気を取り直して深夜の3時まで読書をした。また寝不足だな。


6月7日

 Mが来たりていびきをかく

 高校からの友人であるMが我が家に遊びにきた。こいつは私がまだスポーツマンであった頃(バスケットボール部)の仲間である。

 8時から始まって夜中の3時過ぎまで飲み明かした。べろべろである。

 Mは我が家に泊まった。物凄いいびきを撒き散らしながら。朝帰ったみたいだ。人が不快に感じる騒音レベルをはるかに超えたいびきであった。私は熟睡していたので気づかなかったが、熟睡する事に関してはオリンピック級であると言われている家人が目を覚ますくらいの凄まじさであったらしい。

 昔からそうだ。私もいっしょに泊まったときよくそれに悩まされた。そういう時私は濡れたタオルを顔にかぶせたり、枕を投げつけて止めたものだが、さすがに家人としてはそこまでは出来なかったのだろう。


6月6日

 やっぱ眠い

 執筆をしながらの昼間の仕事はきつい。今日も睡眠不足だ。まだ体が慣れないということもあるが、頭はぼーっとしている。

 今日は会社のWEB制作者との打ち合わせをした。私の今までの社会人経験から言うと、この製作者はお得意様、つまり我々の意向を重んじようとする姿勢がやや感じられない。お客様は神様である。もちろんお客の奴隷になれとは言ってない。しかしお客を満足させようとする努力は怠るべきではないし、またそうすべきである。それが資本主義というものであって、その中にて競争が生まれるのだ。

 意思の疎通がなってない。私はいわばバイトの身なので強いことは言わなかったが、私が担当者だったら、滅茶苦茶言ってるところである。

 真のプロとは説明責任を果たさなければならないし、客に対しても分かりやすく説明できるようでなければ、それは単なる専門家の驕りである。

 すでに稼動している会社のホームページの大切さをわかっているのだろうか?命をかけてでもやるべき事だ。甘っちょろい。

 しかしこちらにも非はある。打ち合わせ不足であった事は否めない。私が元いた会社でこんなことをやっていたら、切腹ものであろう。

 これから何とかしなければならないだろう。前向きに解決を図っていかなければな。


6月5日

 初出勤

 天神にある会社に10時に出社した。早起きは辛い。睡眠時間は3時間だった。

 まずは皆に紹介された。一人一人挨拶してくれたが、名前なんぞ覚えきれるわけもなく、これから徐々に覚えていくしかない。

 午前は取り扱い商品の説明をされた。Bさんという年配の女性にだ。まあ大体は頭に入ったと思う。午後からは私のやるべき仕事の概要の説明だ。

 私は主にWEB関係の仕事に従事する。それを見込んでの誘いだったので、これは真剣にしなければならない。また覚えるべき事もある。これは自力で何とかしなければならない。今持ってる基礎的な知識だけではなく、ある程度深く突っ込んで勉強せねばならないだろう。

 しかし寝不足で疲れたし、久々のスーツ姿での仕事も私を大いに疲れさせた。

 本業をおろそかにしないようにしなければな。本末転倒になってしまう。

 それにしても従姉が部長だとは知らなかった。お互いやりにくいだろうな。最低限のけじめはつけるつもりだが、私は所詮助っ人のようなものである。いずれは本国に戻るだろう(どこやねん)。自分自身のスキルアップに役立てるとするか。


6月4日

 片付け

 気合入れて片付けじゃい!自分の書斎だけは何とかした。パソコンも設定し、回線もつなげた。これでいつでも本業を再開できる。

 気に食わないヤフーBBもスムーズに開通した。以前の10倍のスピードが出た。おおこれで許そう。結局1月から3月までは課金されなかった。これも私が理路整然とクレームをだしたおかげだろうか。まあよい。今度の動きとパフォーマンスには文句はない。

 しかし体がだるい。筋肉痛だし、全体的に弱っている。

 ああああ!明日から仕事だ。8時には起きなければ。


6月3日

 引越し

 疲れた。妹と母が手伝いにきてくれた。私はへとへとである。夕方家人の父もきてくれた。皆さんありがとう。


6月2日

 賃貸契約

 家人と例の不動産屋に行った。私は初めて訪れたのだが、一応まともな雰囲気を醸し出していた。生意気な担当者も会ってみると、真面目な感じで、これまた普通だった。しかし騙されてはいけない。

 ここでも私はある要求をたきつけ、それを認めさせた。それは1年以内に退去した場合、1か月分の家賃を余分に払わなければならない、という条文だった。1年以内に退去するつもりはないが、こんな条文は字面を目で追うだけでも腹が立つ。止むを得ない場合もあるだろうが!

 そう言って、削除させた。

 他は納得できたので、本契約と相成った。

 私が売れっ子作家になって軽井沢に永住する時まで、ここに住もう。


6月1日

 夢とは何だ

 新聞の地元欄にこういう記事があった。それは「私の夢」と題された子供用の投稿欄であった。

 小学5年生の女の子の投稿だった。記事を抜粋して引用してみよう。

「私は将来お医者さんになりたいです。」

 ほう、人の命を救ったり、助けたりしたいのかな、と普通思うだろう?そして中々難しいとは思うけど、頑張って欲しいものだ、とまで思い暖かい目になっている自分に気づくはずだ。

 私もそう思った。しかし後に続く文章を見たときに驚きを禁じえなかった。

「なぜなら、お医者さんは給料がいいからです」

 ううむ、そうきたか。おじさんはすっかり騙されたよ。最初は何て夢のない現実的な子だろうと思った。しかしそこからは色々な想像ができる。

 貧乏でお金に苦労している家庭に育ち、自分が何とかしなければと思ったのか。だとすれば健気であるとも言えなくもない。しかしその場合は純粋な夢とは言い難く、現実打破の方法の模索としての結果である。

 夢とは達成するのが難しく、そうなりたいという理想であり、何よりそれを語るときには甘美でなくてはならないと思う。達成できるかはわからないが、思い続け、追い続け、逃げられ、裏切られ、そういう複雑な過程を経た上に成り立つもので、そこに現実を持ち込んではもはや夢ではない。

 もう一つ驚いたことがある。それは子供は夢を語るときある程度大人が喜びそうな、つまり欲情との結託を行うのだが、(簡単に言えば人々の思い込み通りに)この子はそういうのをお構い無しに、そんなのは夢ではない、と言われる可能性があるにもかかわらず、堂々と投稿している。また新聞もそれを載せている。そういう意味で私は2重に驚いたのである。

 38にもなって夢を追い続けようとしている私はどうなるんじゃい!とも思ってしまったよ。私のは夢の定義を満たしてはいるが、いかんせん今の今の厳しい世の中にあっては、好意的に見られることはほとんどない。夢と現実、このバランスをいかにうまくとるかが、大人なのかもしれない。